OJISANの生活

介護でつぶれないための5つのヒント

 昨年の12月のブログ記事を最後にOJISANは消息を絶ったがこのたび復活することにした。記事を書かなかったのに深い理由はない。怠け病に罹ったのである。なんかメンドクサカッタ、それだけである。

 OJISANが老母の家に通って3年、引き取り同居して2年介護しているうちに介護の世界も変わってきた。特徴的なことはOJISANのような中高年男の老親介護が脚光を浴び始めたことである。5年前の介護の担い手イメージは一般的に娘とか嫁など女性たちであり、男が介護しているなんていうのは親の弱みにつけこむバカ息子の危険な家庭内暴力とか介護はおろか生活維持のノー・ハウも持たずオタオタと振る舞うバカ息子のイメージが先行していて、母を介護してますなんてうっかり言えない雰囲気だった。ところがいつのまにかOJISANのような状態の中高年男が増加して、もはや家庭介護者の5人に一人は息子とか夫なんだと。状況は気味が悪いほど風雲急を告げているのだ。新聞やテレビでもそうした実情を伝える報道が多くなってきている。ご同輩が多くなって喜ぶべきか悲しむべきかそれが問題だよ。ウィリアム君。

 男の介護者もトクなことがあるのだ。母を車椅子に乗せて歩いていると見知らぬ女性が挨拶してくれたり、微笑みかけてくれたりするのだ。誉めてくれる人もいる。もうそれだけで母の迷惑顧みず毎日のように車椅子で連れ出す。なにしろ今まで女性に笑われても微笑みかけられたことなんかなかったもんね。願わくばもっと若い女性であればなおさらにいいんだけど。それにケア・マネージャーさんもヘルパーさんも男の介護はなにも分からないだろうと懇切丁寧だし、親切に対応してくれる。だから知っていることでも分からないふりをする。OJISANがいちばんモテるのは母の仲間たちからである。出会ったりすると「・・・・さんいいわねー。息子さんにめんどうみてもらって・・・・」とOJISANの顔を憧憬のまなざしで見つめるのである。母は実態も知らないで、と舌打ちしている。

 こうして何年か実体験を積み重ねているといくらボンクラOJISANでも「介護の心構え」みたいなものが固まってくる。最近OJISANなりの介護の心構えをまとめてみた。みんな新聞記事やテレビや介護本からの受け売りであるがOJISANのこころを癒してくれるには十分である。この5つがいまのところ我が心を助けてくれるのだ。

smile介護でつぶれないための5つのヒント

①自分の時間と健康を大切にし、自分のQOLを保つ工夫をする。              

②「介護の意識」から離れる時間をつくり、人に頼る勇気を持つ。              

③できるだけの努力はするが、「完璧な介護」など存在しないと思う。            

④したいことがあれば「介護が終わってから」ではなく、いますぐ始めてみる。

⑤「介護」で悩んでいるのは自分だけではない。

 

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生きる執着心

 おふくろは89歳になった。身体はよれよれになっている。頭はまだ大丈夫だが、時々怪しい。排泄の不始末を中心に生活のいろいろな面でやっかいが目につき始めている。そういう有様を見ていると自分はこんなにまでなって生きていたくないと思う。しかし、ままならないのが人生だ。おふくろは何を考え、何を感じて生きているのか分からない。もくもくと日々を過ごしている。OJISANも黙々と母親の世話をして過ごしている。その意味では変化のない平穏な日々とも言える。たえず死を前に見据えた平穏だ。老人介護にハッピー・エンドはない。せめて良き死で終わらせたいというのが求める幸せである。

 OJISANは「こんなにまでなって生きていたくない」と書いたが、おふくろもこんなになるまで生きるはずではなかった。海外からの引き揚げ、戦後混乱期の夫との離別、こどもを二人を抱えての必死の生活。いつ死んでもおかしくなかったのだ。おふくろにはそういう予感が明確にあった。だから国民年金も繰り上げでもらってしまい損をした。

 おふくろはただ生きた。生きる執着心など持ちようもなかった状況だったが生きてしまった。それがOJISANも生かした。海外から引き上げの際に子供を捨てた親はたくさんいた。しかし、おふくろは自分も子供も生かした。戦後の生活は子供のことを省みる余裕もなかったが子供に必死に生きる姿を見せることで、こどものOJISANも必死に生き、グレられなかった。中途半端な生活環境で放置されていたら立派な犯罪者になっていただろうと想像することがある。母親が自分でもわからないうちに生きて、生きて、生きたから今日のOJISANがある。たいした人物になったわけではないがOJISANもしぶとく生きている。

 母親が「こんなにまでなって生きた」執着こそOJISANにいいことも悪いこともたくさん経験させるOJISANなりの豊かな人生を与えることになったのだ。排泄の不始末を怒り、おかしな言動にイライラし、この先の見えない世話にやるせない思いを持つとき、OJISANはその根源に母親の「生きる執着心」を見つめて感謝し、あらためて介護の勇気と継続の意志を奮い立たせているのだ。

 

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母の衰え

 libraいつも変わらずに見える母もやはり衰えてきているのだ。この5月で母は89歳になる。その母の介護を始めて4年目を迎える。はじめは通いで、今は同居してみている。OJISANから見ると母は模範的な老人である。礼儀正しいし、忍耐強いし、矜持を持ち、なるべく人を頼りにしないように努力している。足腰が弱り、難聴で、目も半分見えないにもかかわらずである。同居の当初は母の失敗に目くじらを立てて怒鳴ったりしたこともあったが、母の失敗のたびに実はOJISANも対処に失敗しているのである。
 しかし、母の失敗にあわてふためくたびにOJISANは介護のあり方を学んでいる。介護方法というよりも介護者としてのこころのもちようが成長していることを実感するのだ。したがって、いまでは二人の間に波風も立たず、穏やかに日を重ねている。それにもかかわらず母が衰えてきていると感じるのが悲しい。

 happy01OJISANは母の介護を通じて、年寄りの相手をすることの楽しさを知った。実に味わい深いのだ。実に暖かい雰囲気なのだ。こちらから呼びかけやアクションを起こせばかならずそれなりに応えてくれる。同居生活も慣れてきて、毎日母とともに大笑い、クスクス笑いがあるゆとりが生まれている。そろそろ自分自身がOJI-SANとなりつつあるOJISANも晩年にはその味が出せるようになるだろうか。よく世間ではひねくれたジジ、ババの話が出るがそういう年寄りはごく少数なのだと思う。
 若い人たちがたくさん介護施設で働いているが、あんがいこういう老人たちの命の輝きにふれる楽しみを感じているのかもしれない。母がデイ・サービスでお世話になっている施設にも若い人たちが入れ替わり働いている。「入れ替わり」という表現は辞めていく現実を暗示したつもりだが、意義ある仕事でも食えなければ辞めざるを得ない。介護の仕事に魅力を感じている若者たちに生活できないという現実をつきつけてはいけない。世代間の断絶そのものであるから。

 sun母にはがんばって生きていてほしい。母の衰えを感じて歳だから仕方がないと思う一方で、OJISANのこころには密やかな不安がある。 

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今を生きる

 88歳の母に「何が楽しくて生きているの」と聞く。母は「なかなか死ねないから。今を生きるしかないのよ。」と答える。

 それを聞いてOJISANは考える。では、おまえは何かあるのか。「ない!」 それでは今だけを生きるしかない。それが一番楽なのだ。

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『のんびりいこうよ』

 「のんびりいこうよ」ってなーんだ?と書かれて、読む人はまず?????だろうな。「のんびり」はのんびりだ。「いこうよ」は旅か。しごとか。暮らしか。そんなところを連想すると思う。

 実はこれは産経新聞「ゆうゆうLIFE」面にときどき掲載される連載介護マンガである。介護マンガというのはOJISANがここで勝手につけた。作者に言わせれば介護ではないかもしれない。ありふれた日常の家族のありようをユーモラスに点描しているのかもしれない。しかし、OJISANは登場人物を作者から見た家族、すなわち介護される人ないしは介護を要するかもしれない人を中心視点として描いているように思えるから介護マンガなのである。

 作者は「赤羽みちえ」さん。OJISANはこの人が大好きだ。と言ったって会ったことも実際に見たこともない。何かの拍子にテレビに出た顔をちょっと見たことがあるけれどマンガに出てくる(本人の)顔にそっくりだ。まあ、あたりまえだな。自分の自画像も描けないマンガ家(画家)は人間じゃない。なぜ大好きなのか。それはマンガから赤羽みちえさんのあったかーい心が伝わってくるからですよ。それしかない。もうずっと前から続いているのだがOJISANが読み始めた頃は病院に入院しているお母さんが中心で、母に寄せる娘の想いが痛いくらいわかる。と言ったって暗いマンガじゃない。何回も書くけれどあったかーいマンガなのだ。そしてお母さんは入院介護生活の果てに亡くなってしまう。同時進行マンガだ。母を亡くした悲しみが伝わってきてOJISANもがらにもなく悲しかった。

 現在「のんびりいこうよ」の主役は作者のお父さんである。この人は以前には画面の隅に登場するその他大勢+アルファ扱いだったが、大抜擢された。このお父さんはなかなかくせ者である。人生の裏表を知り尽くし、心配する娘を振り回してしたたかに生き抜いている。一人暮らしの83歳。酒好きのようだ。好人物とは思えない。でも憎めない。何にもできないらしく、ボーっとしているように思えるがとにかく生きている。一人暮らしだからすごく心配になる。訪ねてみるとどっこいふてぶてしくも悟りきった生活の知恵と態度を見せる。赤羽みちえさんはそういうお父さんを攻めあぐねている。

 OJISANが笑っちゃうのは、お父さんの生活姿勢というか老人としての生き方の裏返し女性版がわがおふくろだからである。もちろん生活条件は違う。おふくろはOJISANと暮らしている。年齢も88歳だ。ボケてはいない。自分で言うのも変だがおふくろは実に素直で礼儀正しくおとなしい。扱いやすい。でも、やっぱりしたたかでOJISANを振り回し、油断しているとウンコ、シッコを漏らす、転んで寝込む。この間などデイ・サービスで入浴して他人の下着一式着込んで帰ってきた。やるねー。「のんびりいこうよ」のお父さんも、わがおふくろも今後が楽しみである。

  

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介護はOJISANを成長させるか

 OJISANの母はさきごろ要介護2となった。昔に比べて子供にかえったような挙措動作、言動のはしはしに笑い、悲しみ、怒る日々となった。ご飯を食べるときは幼稚園の子供のように大きな声で「いただきまぁーす」と言い、こぼしたものを目で探す。「ありがとうございます」とか「すみません」とか「おはようございます」など言葉遣いが他人に対するように礼儀正しい。この情景だけをとれば、まったく模範的な要介護老人である。

 母の問題点は排泄の失敗である。そして、OJISANの問題点が抉られたのもこの排泄の後始末においてである。母は3年前はオシッコのお漏らしをした。自分で始末できた。次に下痢をしてトイレに間に合わずフロアに点々と残した。そのときも不自由になってきた四肢を苦しそうに折り曲げながら自分で掃除した。現在はもうダメである。自分では便をしたあとお尻を拭くのもこころもとない。ポータブル・トイレから立ち上がり手を後ろに回すのだが要所まで手をとどけないのだ。それはお漏らし防止の尿パッドをしてパンツを穿いても、何かの拍子に尿パッドを見るとウンコがべったり付いているのでわかる。

 そのころからOJISANは母のウンコの始末を時々だがせざるを得なくなった。自分のウンコも臭いが、他人のウンコは本当に臭い。尿パッドのオシッコだって臭い。オシッコがなんでこんなに臭いのだ。おふくろのオシッコは特別な匂い物質でも入っているのかと思うくらい臭く思った。それでも、ベッドの防水シーツ、パンツの中、尿パッドの範囲で問題発生ならなんとかこなせた。しかし、最近数ヶ月は月に一度くらいその範囲を超えるのである。そしてだんだんそれがひどくなる。

 このあいだ、母はウンコをした。拭き方が悪くてしかも手に付いたのも気づかずあちこち触るものだからポータブル・トイレのあちこち、ベッドの手すり、下着の上下の部分、足にもついている。落ちた糞をあわててトイレット・ペーパーで拭こうとしたのか絨毯の汚れも拡大している。これほどひどい状況は初めてだ。逆上してしまった。母に動くなと命令しても母もあわてている。怒りと母を制御しようとして裸の尻を平手で強く叩いた。その尻にOJISANの手のひらの跡がつくほどに。(以前にも手などを叩いていたことがある)

 すべてを片づけるまでに1時間もかかった。母は落ち込んでいる。OJISANは母の尻の跡のことを考えた。明日の朝まで残るなら(虐待の跡だから)デイ・サービスには出せないなと。そう計算しながらも、猛烈な後悔の念が湧いてきた。OJISANは表面的には穏和な男という評価がある。実は若いときから凶暴な本質を秘めており普段はそれを抑圧している。(現役時代、それがなければあの闇の戦争に生き残れなかった)もう使う必要のない狂気から逃れられないのか。OJISANを生み、本来なら4歳で死ぬか、捨てられる命を救い、戦後の過酷な生活でも我々兄弟を育ててくれた母になんてことをしたのだ。(いま考えるとここはもうお涙頂戴式だが、ちょっと苦笑いしちゃう)もうぜったい暴力をふるうなどということはしないと大反省をした。

 大失敗、小失敗、大反省を繰り返していろいろなことを修得するOJISANである。そして今日、母は盛大なそそうをした。片づけるのに2時間半もかかった。だんだんひどくなる。母は落ち込んでいる。しかし、OJISANは「ウンコ、ウンコ♪♪~」と鼻歌を歌うときもあった。自分なりにかなり無理していたかもしれない。でも我慢して作業できた。不思議に盛大なはずの匂いも気にならない。

 「介護は地獄ですよ」と安藤和津さんは涙ながらにテレビで叫んでいた。でも別のテレビの出演場面では若々しく晴れやかだった。久しぶりに見る井森美幸さんは昔のように元気だ。OJISANを感動させ、介護のこころを教えてくれた荒木由美子さん、みんな介護の苦しみ、悲しみ、孤独を通り抜けてきた人たちだ。これから正念場を迎えるOJISANもいつの日かあの人たちのような過去への思いを持ち、今を生きることができるようになるのだろうか。

 

 

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母が退院したら

 入院3週間母が退院した。脳梗塞を発症したにしては極めて短い入院だった。しかも入院期間後半は退屈してジタバタしていたほどだから極めて幸運だった。今回のできごとを母はどう受けとめたであろう。

 病院からタクシーに乗って15分母は少し酔ったそうだ。小脳のバランス機能に悪い影響を与えたかなとちょっと心配したがその後姿勢や気分に変化はなかった。母は手のちから十分。足のちからも自ら階段を三段上ってあることを示してくれた。次は病院で施されていたオシメとの別れに問題が発生しないかだ。部屋で直ちに尿パッドにパンツを穿いてもらう。ついでに「ウンコとシッコのときは教えるんだよ。トイレでするんだよ。」と念を押す。母はうなづいてくれた。夕方まで三度おシッコに行ったが、すべて自らトイレまで歩き、パンツを下げてした。尿パッドは一滴も濡らさなかった。ところが翌日は2回尿漏れで失敗、前途に暗雲がと怖れたが、それだけでその後ウンコもシッコも失敗がない。がんばっているよおふくろさんは。

 退院後1週間元気だったり、弱々しく臥せる時間が多かったり、そのいちいちの姿に喜んだりがっかりしたりして過ごしている。食べ物もよく食べたり、食べなかったり安定しない。医者は、栄養のある物を食べさせてと言うがしろうとでは何が良いのか分からない。分かっても全てはそろえられない。そのうち、栄養のある物を食べていれば人間は死なないならこの世の中に死人はいなくなる。なんて妙な反発の気持ちが湧いてきたりする。

 さまざまな情報から増幅された恐怖の介護ワールドに突然はまりこんで、分かっていてもこちらの身体が動かない。母の様子をじっと見て対応しようと身構えているが、ただぼやっとしているだけなのかもしれない。母はそういうこどもの立ちつくす姿を見透かして結構自分で食べたり、休んだり、テレビを見たり、トイレに行ったりしている。入所希望三年待ちとか、二倍三倍と聞いているし、なにより金がないから施設入所は最初から諦めて希望しない。家に連れ帰ってオトコのシロウト介護のみ。あるのは肉親の情のみ。母の命を縮めるかもしれないが今はこれしかない。病院や施設のような行き届いた世話はできないけれどいつも側にいてあげられることだけが良いところだと思うことにしよう。

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母が入院したら

 三好春樹さんの「ウンコとシッコの介護学」という本にひとしきり感心していたら、母が入院してしまった。

 熱帯夜もようやくとぎれた八月末、夜中に母が吐いた。朝方も粘液質の内容物を吐いた。おなかが痛いかと聞くと「痛くない」という。ようやく暑さをやり過ごしたのについに熱中症かと室内を冷やし、安静にして午後まで様子を見たが、回復する気配がないため救急車を要請して病院に運んだ。レントゲンから始まってMRI検査などもしたらしい。結果は「小脳梗塞」という診断だった。主に身体バランス機能に影響が出るらしい。どうりでちょっと母の身体を起こしかけたとき小さな悲鳴をあげたわけだ。身体を起こしてものすごい不快感に襲われたのだ。吐き気はもうひとつの症状だ。その晩は集中治療室に入れられた。おおごとになったと思った。

 母と自分のこれからを思って暗澹たる想いになった。88歳だものいつかは来ることだと覚悟はしていたが、いざやってくるとその運命の前に立ちすくんでしまう。このまま死んでしまうのか。寝たきりになるのか。認知症か。思うことは悪いことばかりだ。ところが、翌日朝、病院の集中治療室を訪ねると母はいなかった。まさか死んだの?おそるおそる看護師さんに聞くと一般病棟に移されたという。3日くらいは集中治療室で様子を見ると言われていたが、もう感染症に負けたり、悪化する兆候はないらしい。指定された病室に行くと母は目を開けていた。「元気かい」と聞き、手を握ると力強かった。足裏をくすぐってやると引っ込めた。反応あり。良かった。なにより足が動くか気になっていた。寝返りがうてれば床ずれの危険性は少なくなる。足に力があれば立てるかもしれない。立てればトイレに誘導でき、自然の排便、排尿が可能になるかもしれない。シモの世話も覚悟しているぞといつも思っていた。でも自分でできれば母のため、自分のためにどんなにかいいだろうと思っていた。そうあってほしいと願った。

退院までの三週間毎日のように病院に見舞うたびに足の力を気にした。最初は足をくすぐり、次に看護師さんの目を盗んでベッドの脇に立たせ手で支えて足踏みさせ、病室内を歩かせ、それぞれがうまくいくたびに幸せな気分になった。時々弱々しいときもあったが母の意識もしっかりしていて、点滴だけの4日間腹が減るらしく、どこで情報を得るのか階下の売店で食べ物を売っているから買ってきてなどと要求した。病状に影響するかもしれないのでその要求には応えなかったが、次には、自分でものにつかまりながら廊下を歩き回り、そのことをやってきた息子に報告する。ついにベッドから抜け出せないように柵をつけ、固定されてしまった。するとさらに退屈して「向かいのベッドのおばあさんはね。・・・・」などとうわさ話をもちかける。退屈で落ち着きがないので、読まないだろうけどひまつぶしにと高峯秀子の「にんげんのおへそ」という本を置いてやった。そしたらそれを片目で(もう片目は見えない)読んでいた。そして、「この本どこにあったの」などと聞く。自分が昔買って読んだことなどすっかり忘れているのだ。同じ病室は5人のおばあちゃんばかりで、みんなぐったりしている。会話もなく、顔を見合う力もないようだ。母はそういう人たちの中で例外的に力強く感じられた。このほんの少しの幸運を感謝したい。

OJISANにはもう一つ心配があった。「ウンコとシッコの介護学」に記述があるが、いまや病院と介護施設ではおむつの考え方が違うのだ。病院ではまず病気ありきで、排便、排尿は二の次である。治療以外に手間のかかることはしない。病気を治す手段としておむつがある。母もおむつをされた。おむつをされた母は最初きっと抵抗感で一杯だろう。だが月日がたつうちに現実を受け入れ、そして慣れ、トイレでの自立した排便、排尿を忘れるのではないかとOJISANはひたすら怖れていた。せっかく立てるのだからそれを生かすために、早く退院させたいとの思いが募った。母は退屈から、OJISANは母の排便、排尿の確立のためひたすら退院を願った。ありがたいことに3週間で退院の日は来た。この先不安はいっぱいだが短い病院生活で退院できることは喜ばしい。

 

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Sentimental Petit Trip

 およそ半世紀前の一時期OJISANは市ヶ谷、九段、麹町あたりをよく徘徊していた。一日の大半をこの界隈で過ごしていたから生活圏だったと言ってもいい。一区切りついたのをきっかけに遠方に去ってからいっときでもここに戻ってきたことはない。こうして老年になってもう一度訪ねてみようかという気持ちになった。この機会を逃せばもう訪れることもないだろうし、再々訪はきっとないだろうと思うからである。たどったコースは、地下鉄市ヶ谷駅から靖国神社を経て、内堀通りを歩いて三番町、英国大使館前を過ぎ、三宅坂から桜田門まで。

 地下鉄市ヶ谷駅の階段を上って地上に出ると靖国神社に向かう光景は一変していた。靖国通りは道の両側とも高層ビルが建ち並び、道が狭く感じまるで谷間のようである。平日なのに通行人も多い。昔はせいぜい二階建ての民家が両側に並び、中央線市ヶ谷駅周辺を除けば人通りも少なかった。左側は民家を通して外濠が見えた。右側の民家の裏手は芸者置屋の三味線の音が聞こえる静かな街並みだった。激変である。もっともこの変わり様はこのあたりだけではない。東京の全ての地域が変わった。

 靖国神社だけは昔に変わらぬ様子をとどめていた。境内は人気も少ない。若い頃は通りかかっても関心がなく、素っ気なく通り過ぎた。申し訳ないことだ。いろいろな考え方があるだろうが、ここには国に殉じた人々の魂が寄り集っていることになっている。OJISANの妻の父は沖縄で戦死した。安らかに眠ってくださいと拝礼した。それから大村益次郎像のところから内堀通りに向かう。内堀通りも変わった。大きな建物が続く。真紅のビルが目立つ。壁面が赤すぎるとして問題になったイタリア文化会館だ。昔もあったが、二階建てのモダンな建物だった。このあたりは三番町。番町皿屋敷のあったところだ。塙保己一の講所もあった。江戸の歴史がひっそりと息づいている地域だ。桂宮邸の前を通り過ぎる。ここは昔は宮内庁分室だった。ここで結婚前の美智子様が皇室での生活の事前教育を受けた。午前中の講義を終わり門を出る美智子様を何度か見かけたものだ。美しく、気高かった。今様に言うならオーラに包まれていた。出てくる美智子様を一目見ようと待ち受ける人々もせいぜい10人程度で門前に護衛の車が一台止まり、私服警官が4名乗り、いささかだらしなく居眠りして、講義が終わるのを待っていた。平穏な時代だった。千鳥が淵が見える。春は櫻が美しい場所だ。ここからは見えないが千鳥が淵を越えた石垣の向こうには武道館ホールがある。千鳥が淵に沿って国立戦没者墓苑。ここは本当に無名の戦士、戦争で死んだ無辜の民の墓。できたころは植栽の樹木も小さく、まばらに見えたものだが、今は幹太く、葉がうっそうと繁り墓苑を囲んでいた。訪れる人もなくひっそりしていた。拝礼する。それにしても、できたときから無名の戦士を祀る墓苑がこんなにも狭く、小さいのかと思ったものだ。

 墓苑を離れ、三宅坂に向かって歩く。車の交通量は多いが人は少ない。昔のままだ。半世紀前にここを歩くときはいつも一人だった。今も一人で歩く。左にお堀を見ながら長い坂を下る。昔は道脇に柵がありそのままお堀を見下ろして歩いた。美しい坂道だった。誰かが世界一の散歩道と言った。そのとうりだと思った。今は道に沿ってお堀を見下ろす細長い小公園を作ってしまったのでお堀は見えても、坂全体とお堀を見晴るかす全風景が見えない。まったく余計なことをするものだ。半蔵門わきをとおり、桜田門に着いた。振り返ってみると高層ビル群のなかに国会議事堂の上層構造が見えた。

 こうして過去を振り返り現在を見て歩く短い旅を終えたが、ほとんど全てが変わってしまった。変わらないのは過去も現在もひとりで歩んだこと。まるで心の中に存在する時空から現在の時空をふわふわとさびしく漂ったかのような感覚が残った。

 

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母の歩み

 OJISANが母のそばに来て介護を始めてから2年が経とうとしている。徐々に衰えていく母のこの2年の様子をまとめてみたい。

 2年前母のそばに来たときすでに手押し車に頼って歩いていた。歩くときは片時もハンドルから手を離すことはなかった。速度は毎分50メートル程度であったように思う。目的地まで休憩はしなかった。そばで見ていて転ぶことが怖かったが本人も同じだったらしく歩みは慎重で転ばなかった。ほとんど毎日外出し、店頭を眺め、買い物をし、書店で立ち読み、近所の川辺に行っては鯉が泳ぐ様子を見て帰ってくるのが日課であった。2年のうちに徐々に歩みは遅くなり今では毎分10メートル、掲示板を見て休憩、木の葉を見て休憩で付いて歩く方が疲れる。自分から意志的な外出はせず誘われて外に出る。しかし嫌々ではない。母は自分なりに努力しているのだ。外出しないときは向き合って両手を支えてあげスクワッドを50回、膝を高く上げる足踏みを50回する。この訓練がうれしそうだ。歩けなくなるのが怖いのは母だけではない。ときどき耳元で「這ってでも、ずってでもトイレは自分で行くんだよ」と叫んでやる。覚悟はしているけれどできるだけシモの世話はしたくない。どれほど母のプライドを傷つけることか。

 以前、介護施設で週一回風呂に入ることにしたが2,3回通っただけでそれ以後その曜日が来るたびに「腹が痛い」などと言って行かなくなった。今では自宅で体を洗ってやる。足があがらず浴槽に入れないのでシャワーだけだ。最近になって介護施設で担当の職員が母の心を傷つけることを言ったかされたらしくケンカしたことをボソっと話したので、行かなくなった理由がわかった。

 知的活動では顕著な遅滞はないように思える。前後数日間の物忘れはない。ただ、時間認識では失見当識の兆候がある。特に曜日の認識が混乱している。まれに正確なときもあるがだいたいにおいて今日の曜日は間違っている。テストした結果ではなく、自ら曜日を言い出して確認するから母自身にも不安があるのかもしれない。

 毎日小説の音読を2頁くらいしている。大活字本を使っている。今までに「坊ちゃん」と「山月記」と「名人伝」「李陵」などを読破してきた。脳軟化の兆候なのかときどき発音がたどたどしくなる。ちょうど3.4歳の幼児の発音のようなときがある。しかし、漢字の読みはすばらしい。まず間違えない。若いとき学校の成績も良く、賢かったらしい。昔から書写の見本のような字を書いたのがそのなごりであった。そうした頭脳の総合的発達と維持が母の識字力を保たせている。しかし、字は下手になりつつある。耳が遠くなり、頭脳の回転も遅くなり耳元に大声で話しても内容を理解することができないとか、理解が遅いと思うときがある。何かを間違えたとか、失敗したと分かったときにやにや笑いをしたり、なにかと言い訳をしたり、ごまかそうとする時がある。それはまだ母のこころに間違いや失敗を恥ずかしく思うありふれた心理があり、ささやかな矜持がある証拠だとうれしく思っている。

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母の涙

 母も88歳になり日時に関しては失見当識状態になっているので、少しでも認知症進行予防になるかと思って最近小説を数頁ずつ朗読させている。小説は大活字本の「坊っちゃん」である。

 昨日はいよいよ最後の2頁になった。母は『清の事を話すのを忘れていた。おれが東京へ着いて下宿へも行かず、革鞄を提げた儘、清や帰ったよと飛び込んだら、あら坊っちゃん・・・・・』とまで読み進んだところで声が止まってしまった。しばらく待って「どうしたの」と声をかけ、顔を見ると静かに泣いて涙を流している。OJISANにはその理由が瞬時によく分かった。次の文章は『よくまあ、早く帰ってきてくださったと涙をぽたぽたと落とした。』とあり、この一文に母は自分の思いを重ねたのである。OJISANも胸を衝かれ大きな塊を感じるほどだったが、同じく涙を流したり、声が震えたりすることが恥ずかしく、声を励まして「さあ、読んで、もうすぐ終わりだよ」と催促し、母もそれから先を読みきった。OJISANはさらに明るい声で「時間をかけて全部読み切って、すごいねえ」と褒めつつもなにか心の中に重いものがしばらくつっかえた。

 思えばOJISANは好きなように生きてきた。就職してすぐに海外で働き40年たった。そのあいだ母のことを忘れたことはないが、月々に欠かさず小遣いを送る以上のことはしなかった。カンパニーの仕事は面白く、後悔することはなかったが、私生活ではつまづいた。そして母のもとに帰ってきた。母は40年待った。清のことばに自分の思いが重なって当然であろう。40年前OJISANが出かけるとき何も言わなかった。帰ってきたときも何も言わなかった。今のOJISANの生活についても何も言わない。嫁に非難めいたことも言わない。恩を忘れかけた息子の帰りが母はうれしいのだ。母親の子に対する愛はいろいろ言われるが、これもひとつのかたちであろう。しっかりと受けとめたい。

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地獄の時間

 60歳を超えたころから深夜目を覚ますことが多くなった。物音や排尿の兆しをきっかけに、あるいは何もなくても目が覚めてしまう。それから眠れなくなるのだ。深夜の室内は耳鳴りがするほど静かである。OJISANは輾転反側しつつも眠ろうとしてベッドで目を閉じ、横たわっているが精神は起きている。そういうとき考えるのはどういうわけか日常の心配事とか将来の不安とか、病気の恐怖とか良くないことばかりだ。もともと心配性でいつもあれこれ不測の事態に備えて算段する癖がついている。ところがこの深夜の心配、不安、恐怖にはどういうわけか解決策がない。ひたすら悲惨な末路へと妄想を深めていくばかりなのである。そのあげく心労の疲れで眠りに誘われていく。とてもぞっとする時間になっている。OJISANはこの時間を「地獄の時間」と名づけている。

 ところが、こういうこころの在りようにも同じことがいつまでも続くと「慣れ」が生まれ鈍感になっていく。心配、不安、恐怖は空疎になり、心は闇夜に目を凝らし、時間の経過をひたすら願い、曙光の訪れを待ち望むだけである。無機質な時間の無意味さをいやと言うほど感じる。これが老いなのだろうか。さっぱりしない。OJISANにとっては新しい体験、新しい世界の展開だと意識するようになった。そして、どう対応していくかが課題になっている。

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けしかけられる熟年離婚

 OJISANは一人暮らしである。性格の不一致や自由になりたいということを理由とした妻からの申し出で離婚を前提にした別居生活を送っている。なぜすぐに離婚しないのかというと年金分割制度の発足を待っているからである。離婚後妻の生活が少しでも維持できるように相談し、取り決めをしてきた。OJISANは離婚したいという妻に対して夫として最大限の配慮をしているつもりである。妻からの申し出にこのように配慮する自分が「お人好し」と思うときもある。現在すでに少ない年金を分けて生活しているが当然双方とも経済的に苦しい。将来も当然苦しい見通しである。

 別れ話が出てきたとき、離婚は二人の経済的不利益と必ず夫婦で生活上支え合う事柄があるのだからという理由からOJISANは離婚に反対した。しかし、妻の別れたいという主張は変わらず別居に至った。諸連絡のため月に一度程度電話しているがすぐに妻の生活上の困難が伝わってきた。驚いたことに、離婚に向けた周到な事前準備は何もせず、一人で生きていく覚悟も、心構えも事実上できていないことが分かってきた。それに専業主婦で生きてきた妻は封筒の宛名一枚OJISANに書かせてきたから社会的な対応がほとんどできない。電話の向こうから沈み込んだ雰囲気が伝わってくる。OJISANは別れ話を持ち出されて一年間回避の努力と同時に別れたときの生活準備、一人で生きる覚悟を固めてきた。実際一人暮らしが軌道に乗り始めた現在にいたっていまさら修正は簡単ではない。どうしたものかと困惑している。

 最近テレビ等で「熟年離婚」報道が盛んだ。たいてい新しい人生に向けて元気よく突き進む妻と突然の離婚要求に青菜に塩の夫という事例が出る。まるで別れた後の妻の人生はバラ色である、生き甲斐と新しい恋まであるかもと煽っているようだ。奥様向けの番組では、「人の不幸は蜜の味」を主要なネタにする姿勢だからか次から次に身近な不幸が発生しないと困るのかこの種の手法が拡大再生産の一方である。だから、なかには深く考えもせず軽いノリで「その後」の想像力も働かず離婚に踏み切る妻もいるのではないか。青菜に塩の夫ばかり出てくるのが本当であるなら日本の男もかなり情けない。まじめなOJISANの妻がどういう思いで離婚を切り出してきたのか十分は分からないが、世間の浮薄な扇動とは無縁の自立した女であることを願っている。

 

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OJISANのクッキング

 一人暮らしの生活一年が過ぎた。我ながら感心なことに毎食自分でつくって食べている。カンパニーで単身赴任の時はいい加減だった。各地に旅行が多かったし、宴会もたびたびだった。不規則な食生活と飽食でちょっと油断するとすぐ太った。落ち着いてメニューを考えて料理する状況ではなかった。それがこの一年結構楽しく料理技術の習得に挑戦している。なにしろ今は時間がたっぷりある。雑誌、テレビにレシピはあふれている。それに経済的には現役時代より厳しいから懐具合を考えればそうそう外食はできない。また、一人暮らしをデタラメ食生活にしてはならないという用心深さもある。やればできるものだ。奥さんがいなくなって食事もろくにできないと落ち込むダメ男が多いと聞くが「しっかりしろ」と言いたい。OJISANからすれば不思議なくらいだ。本格クッキングを始めて気がつくことがいろいろある。これからできる料理と気がついたことを書き並べてみる。しかし、家庭の主婦やプロからすればOJISANの「気がついたこと」はお笑いぐさだろう。だれでも最初はそんなものだと思うし、何しろ生きる原点なのだからめげないで頑張ってみるつもりだ。以下につくった料理と短い感想を書いてみる。

★ごはん  日本人の基本食 電気釜の性能に驚いた。どんな米でもうまく炊く。個人差なし。★みそ汁  だしの重要性を認識した。一人分をつくるのは難しい。最近のインスタントみそ汁も悪くない。★カレーライス  誰でもできる。OJISANは3回分をつくり2回分は冷凍する。冷凍カレーは余りおいしくない。それにジャガイモが崩れる。★親子どんぶり  簡単、かんたん とき玉子を具の上に2回に分けてたらし、2回目の玉子が固まらないうちにご飯に移すのがこつ。★グラタン  ホワイトソースは缶詰でもレトルトでも売っているのをかける。レンジでちょうどいい具合に焦げ目がつくよ。★ハンバーグ  肉とみじん切りした玉葱それににんじんなどを手でこねて塩こしょうしコロッケみたいに形を整える。ところが最近近くの肉屋で安くてジューシーな手作りハンバーグを売り出して、しかもうまいので自分でつくるのはやめてしまった。無理することはない。★肉じゃが  これも簡単。味付けに気を遣う程度だ。3回分ぐらいつくるが日持ちはイマイチなので毎日連続食することになるが、苦にならない。★麻婆豆腐  麻婆豆腐の素をつかうのですぐできる。麻婆豆腐の素に入っている挽肉が少ないので少し足す。これも2回分ぐらいつくることになる。★炒飯  これも炒飯の素をつかう。フライパンの上でご飯が固まらないように木のへらで一生懸命かきまわす。パラパラのいい炒飯ができるよ。これも3回分ぐらい作り2回分は冷凍する。冷凍炒飯はレンジで温めれば悪くない。★スパゲティ類  一番シンプルなのは塩味パスタだ。にんにくの重要性を知った。料理の本には「このパスタが基本で、うまくできればOK」と書いてあった。自信を持った。そのほかスパゲッティ・ミートソース、ペンネ・アラビアータやキャベツのスパゲティ、トマト・パスタ、季節のキノコ・パスタなども作れた。★スープ類  スープはまずみそ汁から始まるが、西洋風のミネストローネ・スープなんかある意味でもっと簡単だ。野菜とソーセージのスープとかオニオン・グラタン・スープとか名前に負けないでやってみればできる。市販のコンソメが味方になる。

 一年間はずいぶんいろいろなことができる。このほかシチュー・焼きそば・ラーメン・ほうれん草のお浸し・ざるそば・目玉焼き・卵焼き・キャベツ炒め・スクランブルエッグ・ワカメとキュウリの酢の物・ひじきと油揚げの煮付け・サラダ類などをつくってみた。その結果今は家庭の主婦っていうのはこんなに創造的な仕事をしていたんだと感心している。OJISANは自信がないから「なになにの素」とかインスタント味付けとか主婦からすれば手抜きもいいとこの料理をつくってきたが、とにかくやってみた。エライと思っている。もっと偉いのは、OJISANに見切りをつけつつある奥さんであると思うが、いまさら尊敬の念を表明してもひっぱたかれるのがオチであろう。今回は一年目の成果としてまとめてみた。次の年にもその成果をまとめてみよう。課題は「あじ」である。   

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OJISANの母親

 昭和21年妊娠していた母は旧満州の奉天から当時4歳のOJISANの手を引き、父とともにほとんどを徒歩と無蓋貨車で移動し、日本人引き揚げ者収容所のあった「コロ島」に到達した。そのころ中国各地では日本人が必死の逃避行のさなかで足手まといの多くの子どもが死んだり捨てられた。それがいまに続く中国残留孤児だ。4歳のOJISANは捨てられなかった。母はコロ島収容所で弟を出産した。自前の食料が今日で最後だという日に帆船の日本丸が入港した。OJISANたちは引き揚げ船日本丸に乗って日本に帰国した。

 落ち着き先は父の故郷だったが、豪農の家であった。父は長男であるが庶子だったためOJISANたち家族の扱いはよくなかった。OJISANは火箸で叩かれたことがある。母は家事、農作業で烈しく働いた。ある日OJISANたちの栄養状態を心配した母が自分の乳を搾って湯飲み茶碗二つに分けてOJISANたちの前に置き、飲めと言った。5歳になって自意識の芽生えていたOJISANは恥ずかしかったが飲んだ。どろっとした少し甘い感じのする湯飲みの白い液体をOJISANは今でも忘れない。一年経ってOJISANがその地の小学校に入学した翌日OJISANたち家族は東京に移った。

  東京では母の実家に寄留しつつ、埼玉県境に近い当時は郊外と言うべき土地に知人、親戚の男手を借り掘っ建て小屋を建てて移り住んだ。鋼管製造会社で働いていた父はそのころから結核を病みはじめ、戦場後遺症(父のほか数人を残して小隊だか中隊は全滅したそうだ)からか精神のバランスも崩していた。父は治療のためといって毛布を持ち入院したが、退院することはなかった。

 母は進退に窮して、二人の子どもを施設に預けて働こうとした。OJISANは弟と二人でその預けられるキリスト教系の施設のやさしそうな修道女と白い衣装を記憶している。しかし、どうしたことか母は結局OJISANたちを預けるのをやめ家に連れ帰った。事態が好転したわけではないので母はOJISANたちを放置同然にしてあちこちで働き始めた。放置されたOJISANたち兄弟は放縦な餓鬼で近所の鼻つまみ者だったに違いない。でも、OJISANは母の苦境を知っていたから自分なりに苦しい目にあっても我慢して、弟をかばい、ご近所の偏見に抵抗した。母は勤めていたところがよく倒産した。金に困ると当時あった売血をして幾ばくかの金を得た。OJISANは売血の後の力の抜けた青白い顔の母の歩みを覚えている。

 そうこうしているうちに細々と家業を営んでいた母の実家の祖父が亡くなり、家業の担い手がなくなったのを補う形で母が手伝いをはじめ、結局OJISANたちも母の実家に移った。それから10年母は家業の中心として働きに働いた。そしてOJISANたち兄弟を大学まで卒業させた。

 これは一人の母親の苦闘物語ではない。それぞれの体験は異なっても昭和20年代に若い母親だった人たちみんながそうだったかもしれない。苦しく、切なく、それでいてたくましく希望があった。あの苦しい戦争を乗り越えてきた共感がみんなにあった。その人たちがいまどんどん死んでいっている。86歳の母の生命が燃え尽きるのもそんなに先のことではあるまい。OJISANはいま母の面倒を見るとか介護とかを思うと不安の壁に圧倒されそうだ。でも、子ども二人を抱えて立ちすくんでいた若い母の気持ちとは比べものにならない。何ができるか分からないが、とにかく側にいることを大切にしたいと思っている。

 

 

 

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OJISANの熟年離婚

 OJISANたち夫婦は、40年近くの結婚生活を通じて性格の不一致が改善されず、解決の努力もせず子どもたちを幼いときから困惑させ、悲しませながらますますこじらせる珍しい夫婦だった。よく40年も続いたものだ。40年といってもそのうち10年はカンパニーの命令で海外各地に単身赴任していたので、ニュートラルな時期もあったりして対立激化に水はかけられていた。不安定な中の均衡が崩れたのはOJISANのリタイアからである。

長い間対立から解き放され自由を謳歌していた妻は、この機会を待って離婚を提案してきた。(実はOJISANも以前に絶望的夫婦関係に絶望して同様のことを提案していたことがあった。二人の経済的不利益を考えて断念していたのだが)離婚に伴う年金分割もあることだしというわけだ。典型的熟年離婚が我が身に降りかかってきた。

 OJISANは最初経済的理由から反対した。しかし、妻の嫌なものはいやという気持ちは変えがたいと思い、後に同意した。そのころリタイア後の時間のゆとりを利用して遠隔の地に生活していた母の様子をたびたび見に行っていたが、心身のとも弱っているのは目に見えて明らかだったから当然OJISANが行くべきところは決まっていた。OJISANは命を懸けた恩を母から受けていたからだ。

 OJISANたちの離婚は正確に言うと法的な年金分割制度の発効を待っている。わずかな年金を二つに分けるのだからお互い経済的不安は終生つきまとう。離婚に至らないまでも「嫌なものはいや」という条件をクリアしてかつ経済的不安定を軽減できる方策が提案できないかと思っている。

 それでも嫌ならしかたがない。最近一人暮らしも悪くないと思い始めた。単身の経験も長いし、母の介護という当面の生き甲斐もあるし、さびしいだの孤独だなどというぼやきもあるが一日全部を自分のために使えるのは悪くない。

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OJISANと孤独

 この街に来ていつも孤独を感じている。それは心をかすめる程度の孤独感であったり、深く重く心を傷つけていると感じるような孤独感であったり、むなしさや寂しさや悲しみといった感覚的でいて痛みを伴う孤独感であったりする。

 OJISANはこうした孤独感がわき上がってきたときは関心をそらしたり、酒や遊びなどの代替物を見つけて心をいやすと言った方法はとらないようにしようと決めている。どのような形にせよ孤独を感じたときはそれを真っ正面から受け止めようとしている。なぜなら一時は逃避できたとしても孤独感はその後に必ずもっと重くのしかかってくるからである。

この孤独感は、当然OJISAN自身に由来する。原因は明確に分かっている。しかし、それはOJISAN自身の中にしまい込んでおくことにする。こうした心の有りようを救うための対応の一つは納得である。孤独感を生むこの境遇は自分が選ぶべくして選んだ主体的な運命であると理解し、いまさらこの状態を変えることをできないことを直視し確認することである。それは時間が経過することによって盤石の事実として定着する。諦念として確定する。現在はそれまでの経過途中と言うことである。

 これからも孤独感は日常の意識としてあるであろう。が、時間の経過とともに「慣れ」という当たり前の精神風景となってしまうだろう。窓の外はゆるやかな陽光に満ちて来つつある。OJISANの春愁は果たしてどのように推移するのだろうか。

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OJISANの暮らしづくり

 この街に来て一年が過ぎようとしている。最初は生活を創るためによく働いた。風呂と居間とキッチンのリフォーム、壁紙の張り替え、そしてトイレのリフォームを行い、住居の態勢が整ってから電気製品、台所用品、若干の家具その他を整えていった。おふくろの家にも当初の計画よりも良く行き、家の中を片づけ、弟の無気力を叱咤し、世間に目を向けさせ、おふくろのこころと体が元気になるように努力した。つい最近ようやく介護保険の認定にこぎつけ、デイ・サービス利用もし始めた。

 ついで前のように小さなコンサートや講演会を聴きに行き、あちこちのスーパーを歩き、周辺を自転車や徒歩で探検して歩いた。掃除、洗濯を楽しみ、うまい料理を作れるようになろうと努力している。昼寝や読書、映画を観に行き、スーパー銭湯に行き、ビデオのDVD化へのダビングを盛んにするなど諸事万端に目を向けていろいろなことをしている。

 しかし、住まいと生活に必要なこと、母の世話といった主要な態勢が整い、落ち着いてくると時々心寂しいというか孤独感が湧き起こって来ることがある。そのたびにここに至ったまでのやむを得ない経過を思い起こし、もう後戻りはできないことを心に納得させている。

 無理もないと思う。少し前まで40年間に及ぶ違った暮らしがあった。その暮らしの感覚は心身の隅々まで私を支配している。覚悟を決め、すべてを捨てたはずでも捨てきれないものがなんと言うこともないときに寂寥感というかたちをとって湧き起こってくる。もう、一年近くも過ぎ生活は完全にこの街にシフトしたはずであるがしかたがないことなのだろう。新しい生活感覚が定まるまでにはまだ時間がかかりそうだ。

 

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はじまりはじまり

 この街に来てそろそろ一年が経とうとしている。家事・料理以外に仕事もせず、自立を維持するためにおふくろの世話も深入りはしない方がいい。訪問もさっと切り上げて住処に帰ってくる。余った時間は自然に昼寝して、読書して、テレビを見てという怠惰な生活になり一日のたつのが早い。もはや自分は自分にも社会にも役立たずだしこのまま年月が過ぎて老いてさっさと死ねばいいじゃないかと時間の過ぎる速さは気にならないが、ぼんやりしている時間がやるせない。

 このまま世の中から隔絶して何の緊張感もなく過ごしてしまうのかとか、頭脳も使わずぼんやりしているといつの間にか認知症になるのではないかなど、実はぼんやりしているからこそいろいろな想いがぐるぐる頭の中を巡っている。傍目には暢気そうにしているがこれで結構不安や心配や悲しみや期待が心に渦を巻いているのだ。

 そんな日々の生活と心の想いを書いてみれば、少しは頭の体操になるかもしれない。気持ちの点検や整理になるかもしれないと思い立って書き始める。今までは文章を書いてもうちに秘めることが多かった。それが外に出すことで案外自分の姿と想いを客観的に見つめるきっかけとなるかもしれない。だから自分が一番の読者となりたい。

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