OJISAN「裁判員制度」をちょっと考えてみる
私たちの国で8月3日から一般の人たちが参加する「裁判員制度」が始まった。新聞もテレビも連日大騒ぎである。あんまり興味がないけれど事細かに報じてくれるので読み流しでも聞き流しでも何となく頭に入ってくる。それで今朝ふと考えたことをネタ切れ気味のブログに書いてみようと思いついた。そんな程度の「裁判員制度」小論である。
まずOJISANは「裁判員制度」による司法への一般人参加賛成である。今まで立法と行政は一般の人でもその気があれば司法の世界よりもはるかに参加する機会が与えられてきた。なのに三権分立の一つ司法だけは倍率何十倍を突破した専門家だけのものであった。主権在民の民主主義制度下ではごく普通に考えればこれってヘンなのである。重要な権力のひとつが選ばれた一握りの人々の欲しいままにされてきたのだから。
だが、従順なOJISANは今まで何の疑問も持たず、司法に限っては距離を置きたがり、それのみか当初は「裁判員制度」という法律がOJISANを縛ってタダ働きをさせる制度と受け取っていたのである。無知も底抜けだがほかの人の司法世界の受け止め方も似たり寄ったりかも。だが、実は裁判員制度は司法権力の一部委譲なのである。権力の一部を委譲するから責任も持て!というわけである。くれるなら金の方がいいのだがうまい話はなかなかないね。
司法(裁判)のエリートは裁判官、検事、弁護士である。裁判官と検事は「裁判員制度やるぞ!」という体制側だから本音はともかくあんまり文句は聞こえない。弁護士だって実力のある人はどんな状況に置かれても的確な証拠主義、透徹した弁論、立場の弱い被告を思いやる人間性で無罪を勝ち取ったり、罪の軽減を図るのである。しかし、弁護士の一部は反対、反対、ハンターイとうるさい。その理由をOJISANは意地悪く推論してみる。①オレが苦労して獲得した陣地の一角でも一般人にとられたくない。②正義の味方、唯我独尊の弁論を一般人に裁定されるのは耐えられない屈辱である。③やる気のない弁護、覇気のない弁論を一般人にさらしたくない。などであろう。
こういう人たちがよく言うのが「外国ではやってない(やっている)」という言葉だが今回は聞かれない。映画などで知られるアメリカの陪審制はもちろんのこと、今や英国、イタリア、フランス、韓国、(ロシアだって)など多くの民主主義国で類似の裁判制度は稼働しているのだそうだ。「一般の人は判決を下す立場の重みに耐えられない」という反対理由もあるが、それじゃ日本人だけは公共のために苦しみを分け合って引き受ける気概のない、利己主義に固まったひ弱な人々の集まりということなのか。法治主義のもとで公平、適正な判断を下す能力のない国民と言うことなのか。
OJISANがもし裁判員に選ばれて「死刑を選択せざるを得ない」立場に置かれたなら慎重に、慎重に考えた上で死刑の選択にも組みすると思う。社会共同体の一員としての負担である。(我ながらなんてエライのだろう)決まったことに苦しまない。
実はOJISANはひところ霞ヶ関・虎ノ門の官庁街を歩くことがあって、暇つぶしに何度も東京地裁の裁判を傍聴したことがあったのだ。面白い裁判は一つもなかった。退屈だったが怖いところではない。身近な、たしかに社会の縮図が見られるところだった。
裁判員になるのは何百人に一人だそうだからOJISANはたぶん当たらない。当たらないと信じている。生涯くじ運は悪いのである。はたして良いのか悪いのか分からない。
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