OJISANの独断と偏見

OJISAN「裁判員制度」をちょっと考えてみる

pen私たちの国で8月3日から一般の人たちが参加する「裁判員制度」が始まった。新聞もテレビも連日大騒ぎである。あんまり興味がないけれど事細かに報じてくれるので読み流しでも聞き流しでも何となく頭に入ってくる。それで今朝ふと考えたことをネタ切れ気味のブログに書いてみようと思いついた。そんな程度の「裁判員制度」小論である。

 まずOJISANは「裁判員制度」による司法への一般人参加賛成である。今まで立法と行政は一般の人でもその気があれば司法の世界よりもはるかに参加する機会が与えられてきた。なのに三権分立の一つ司法だけは倍率何十倍を突破した専門家だけのものであった。主権在民の民主主義制度下ではごく普通に考えればこれってヘンなのである。重要な権力のひとつが選ばれた一握りの人々の欲しいままにされてきたのだから。

 catfaceだが、従順なOJISANは今まで何の疑問も持たず、司法に限っては距離を置きたがり、それのみか当初は「裁判員制度」という法律がOJISANを縛ってタダ働きをさせる制度と受け取っていたのである。無知も底抜けだがほかの人の司法世界の受け止め方も似たり寄ったりかも。だが、実は裁判員制度は司法権力の一部委譲なのである。権力の一部を委譲するから責任も持て!というわけである。くれるなら金の方がいいのだがうまい話はなかなかないね。

 chair司法(裁判)のエリートは裁判官、検事、弁護士である。裁判官と検事は「裁判員制度やるぞ!」という体制側だから本音はともかくあんまり文句は聞こえない。弁護士だって実力のある人はどんな状況に置かれても的確な証拠主義、透徹した弁論、立場の弱い被告を思いやる人間性で無罪を勝ち取ったり、罪の軽減を図るのである。しかし、弁護士の一部は反対、反対、ハンターイとうるさい。その理由をOJISANは意地悪く推論してみる。①オレが苦労して獲得した陣地の一角でも一般人にとられたくない。②正義の味方、唯我独尊の弁論を一般人に裁定されるのは耐えられない屈辱である。③やる気のない弁護、覇気のない弁論を一般人にさらしたくない。などであろう。

angryこういう人たちがよく言うのが「外国ではやってない(やっている)」という言葉だが今回は聞かれない。映画などで知られるアメリカの陪審制はもちろんのこと、今や英国、イタリア、フランス、韓国、(ロシアだって)など多くの民主主義国で類似の裁判制度は稼働しているのだそうだ。「一般の人は判決を下す立場の重みに耐えられない」という反対理由もあるが、それじゃ日本人だけは公共のために苦しみを分け合って引き受ける気概のない、利己主義に固まったひ弱な人々の集まりということなのか。法治主義のもとで公平、適正な判断を下す能力のない国民と言うことなのか。

 OJISANがもし裁判員に選ばれて「死刑を選択せざるを得ない」立場に置かれたなら慎重に、慎重に考えた上で死刑の選択にも組みすると思う。社会共同体の一員としての負担である。(我ながらなんてエライのだろう)決まったことに苦しまない。

 sandclock実はOJISANはひところ霞ヶ関・虎ノ門の官庁街を歩くことがあって、暇つぶしに何度も東京地裁の裁判を傍聴したことがあったのだ。面白い裁判は一つもなかった。退屈だったが怖いところではない。身近な、たしかに社会の縮図が見られるところだった。

 裁判員になるのは何百人に一人だそうだからOJISANはたぶん当たらない。当たらないと信じている。生涯くじ運は悪いのである。はたして良いのか悪いのか分からない。

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『トムラウシ』

 OJISANは山登りが好きでいろいろな山に登った。特に北海道の大雪山系は大好きだった。しかし、「大雪山」という山はない。北海道の中央に広大な山塊が盛り上がりそこに幾つもの山がさらにあちこちボコボコと盛り上がっているという形状の全体をさして「大雪山」と総称している。

 いったん山塊の上に登ってしまえば一日で主峰旭岳とか黒岳とか緑岳とか白雲岳とかだとわりに簡単に縦走できてしまう。本州のように千メートル単位で上り下りするような縦走にはならない。一日限りの登山者はロープウェーのある旭岳と黒岳に集中する。そこで満足する。だが、本当にいいのはそこから先なのだ。登山者はきわめて少なくなり単独行を好むOJISANには風の音も静寂も花の群落も全てが我が身ひとりを包むように感じられるのだ。天気のよい7月、8月に高山植物が咲き乱れ、残雪が陽光に光る山道をポックラポックラひとりで歩いていくと天上の楽園にも思われて、実にのどかな楽な山歩きに感じられる。だから夏になるたびに出かけたものだ。

 トムラウシは大雪山塊の最深奥にある。まさに絵になるいい山である。トムラウシの向こうは十勝山域になる。トムラウシには直登コースもあるが上級者向けで10時間以上かかるハードな山行になる。そんな登るだけにがむしゃらになる山行は嫌いだ。そのためOJISANが、トムラウシ方面に向かうときはロープウェーで黒岳に登り、白雲岳避難小屋に泊まり、翌日高根ヶ原をのんびり歩き、忠別岳避難小屋に泊まり五色岳から化雲平を通ってヒサゴ沼避難小屋に泊まってと三泊もかけて、それなのに翌朝目の前のトムラウシ山には登らなかった。疲れていたからである。OJISANは単独行でこんな山奥で動けなくなったり、怪我をしたらヘリコプターで運ばれるはめになることが怖かった。そんな恥ずかしい立場には絶対なりたくなかった。OJISANはきわめて用心深いのである。臆病なのである。OJISANはヒサゴ沼から同じ道を辿って引き返した。

 以来、五色岳、化雲平までは何度も行ってそこからトムラウシの山影を堪能したが登ったことはない。もうこれから登る機会も体力もない。OJISANにとってトムラウシは登りたかったけれど登れなかった永遠の山になったのである。

 7月17日トムラウシで中高年ツアー登山者8人が死んだ。みんなOJISANと同年輩である。なんとトムラウシ山行経験のない登山ガイドに連れられて屠所に引かれる仔牛のように死んでしまった。天気が悪いから自分は止めたいと言えなかったのだろうか。「山で死ぬのなら本望だ」と言い残した人や「歳だからこれが最後」と言って登った人もいたというから悪い死に方ではないが残念だ。OJISANのように登れなかった山が一つや二つあっても良いではないか。それが山屋のロマンだと考えても良いではないかと思う。

 立派なメタボ中高年のOJISANはいまウォーキングに励んでいる。今朝はトムラウシと死んでいった人たちのことを考えながら歩いた。

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もう遅い

pencilOJISANのブログは自分の等身大にふさわしい日常の思いつきをポツポツと書くことが目的だ。だから政治とか経済とか地球とか世界とかの話題は大きすぎて本来無縁と思ってきた。しかし、最近の気候変動のニュースやら食料、資源問題などの報道を読んだり見たりしているとどうもでかすぎるなんて言ってられない気分だ。この地球に生きている60億分の一人としてこの先生き死にに関わる変動が起きているんじゃないかという(不吉な)予感がする。しかももう誰も止められないという予感だ。しろうとの予感だから自前の何の根拠もない。もしかしたらおどろおどろしい報道に惑わされて怖がっているだけかも知れないとも思う。それでも5年後に(生きていれば)この一文を読んでOJISANの予感がはずれていることを願って書き付けておく。

 今日から洞爺湖サミットが始まった。一番二番の議題は、地球温暖化と食糧問題だそうだ。両者は絡み合っており食料の増産減産は地球気候に左右されることは素人でも分かるから結局地球温暖化が一番の問題だ。北極の氷が溶けたとかアメリカやオーストラリアの干ばつとか中国内陸の砂漠化とか世界各地の天変地異が生の映像で人々に届けられ、これを見るとただごとじゃないと思う。身近な生活実感でも豪雨が頻発しているし、雷も多い。やたら暑いしなんか変だと感じることが多くなった。

 なのに、世界では自国の利益を優先してお互いに譲らない。明らかに自分の国土や気候もおかしくなっていると分かっているのにである。サミットに偉い人が集まっても合意事項は玉虫色で具体性がはっきりしない。地球人類の努力よりも温暖化の方がずっと先を行っている気がする。もう戻れないぐらいだ。100年後には地球平均気温が何度か上がって海面が6メートル上昇するなんて予測があるけれどそのころ人間はどうしているのだろう。そのころ人類は絶滅していると予測した方がいいと思う。海面が6メートル上昇しようが人はいなくなっているのだからかまわないのだ。意外と人類絶滅の進行は速いのではないか。50年後にはCO2を現在の50パーセント減らそうなんて相談しているけれど人類も50パーセントは死滅しているに違いない。地球崩壊に向かって動き出した自然はそんなに甘くないと思うよ。

 ただ、権力も金もない人間たちにも(非常に後ろ向きの)救いはある。追いつめられるのは自分たちだけではない。核戦争なら生き残る権力者や金持ちもいるかもしれない。しかし、二酸化炭素は平等にじわーっと迫ってくる。だれも防御できない。避けられない。そしていったん地球に充満した熱とガスは永遠と思えるほどの年月減らない。生き残って酸素ボンベを背負った生活など何の意味があるだろう。熱い地球のどこに住むというのか。生き残れば生き残るほど苦痛の生活が待っており、おのれも含む人間の愚かさを思い知らされるわけだ。

 こんな子供じみた書き方で予測をしたが、生きていれば5年後にはOJISANは70歳になる。そのとき自らの文章を読み、地球がもっとおかしい状態であればすぐ分かる。仮に悪い方向に向かっていてもOJISANは滑り込みセーフだ。人類絶滅の前に死んでしまえるだろう。それまでこの成り行きをしっかり見守ってみよう。予測が甘いだろうか。自分勝手すぎるだろうか。

 

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銭湯の人生

 OJISANの主要な息抜きはスーパー銭湯に浸ること。久しぶりに浴槽でぬくぬくとしていてふと気がついた。

 向かいに座るおじさんの顔のなんと厳しく見えることか。人生の辛酸をなめつくし、それに堪え、さらに果敢に闘争しようという迫力まで感じられる。さらに、浴槽の縁に座るおじさんも半身を湯に浸すおじさんの顔も横を通るおじさんの顔もそれぞれ厳しく、哲人のごとく感じられる。実に味のある顔、顔、顔である。してみると、OJISANもそれらしい顔をして湯に浸かっているのであろうか。そうありたいがOJISANに限っては自信がない。むかし、「男の顔は履歴書である。女の顔は請求書である」と言った人がいるが、出っ腹や肌のたるみは別にして、顔だけは実にいい群像を見た気がした。

(山里の野天風呂につかる日本猿を想像してもらってもいいんだけどね)  

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OJISANはクレーマー

 OJISANは最近久しぶりに公的に怒った。理由は私憤だが表立ててクレームしたので公的になったのである。しょーもない理屈なんてどうでもいい。経過を書いてみよう。OJISANの怒りがどんなに正当(たぶん)なものか分かっていただけるであろう。

 OJISANは、ある日あるデパートに入った。一階に食品売り場のあるデパートである。(小さいデパートではない) 久しぶりに母にうまいパンを食べさせたいと思いあるしゃれたフランス貴婦人の名のついたパン店に入った。クロワッサンとあと一種類(忘れた)をトレイに乗せて、さてと数個所のレジを見ると空いているところがあったので近寄った。とたんにレジの若い女性(OJISANの天敵)から大きな声で「列にお並びください。みなさんお待ちになっているんですから」と(ほとんど)怒鳴られた。(と感じた) OJISANはえっと思い、振り返ると男性がひとりトレイを持って立っている。その男性の上に看板がぶらさがりそれらしいことが書いてある。下の床には消えかかった矢印が描いてある。こんなの見えないよ。なんだその怒鳴り声は、客であるOJISANは衆人環視の中で怒られているのではないか。OJISANは恥ずかしさと怒りで直ちにスイッチが入り、トレイをパンごと放り投げ自己の所信を表明しようと言う体勢に入りかけた。

 が、かろうじてやめた。怒鳴ったところで暴れたところで、ほとんどOJI-SAN化している男の孤独と悲哀に生き飽きた果てに若い女性を相手にカタルシスを発散している醜い姿だとしか思われないからである。OJISANは黙って並び、その女性のレジにトレイを乗せる順になった。怒りを抑圧したOJISANの顔はきっと凶悪そのものだったに違いない。しかも時間がなく焦っていると誤解され(あとでOJISANは気がついた)、何度もレジ女性は「もう少々お待ちください」を連発していた。会計を済ませ、レジを離れ帰途についたOJISANの心は大きく傷つき、家に帰っても怒りは肥大して頂点に達していた。何か言ってやらなければならない。このままにしておけば自分の怒りの対象は無辜の人々に及ぶ危険がある。OJISANの怒りは正しい対象に向けなければならないと決心して電話帳を繰った。

 電話は一階の食品売り場の責任者だという女性に回された。OJISANは、名前を名乗り経過を説明し、①並ぶよう指示する看板が高すぎて気がつかない。まして初めての客には。②床の矢印は消えかかっている。列を示すロープもない。③たしかにOJISANは間違ったが、小さい声で「お客様、恐れ入りますがお並びください。」とでも言ってもらえないのか。まるで割り込みをするズルイやつ扱いだ。④客であり、年上の者に敬意を示すよう教育せよ。しかし、もう二度と行かない。⑤なんか文句あっか。⑥名前を名乗ったが反論があるなら住所も教える。徹底的に戦闘的に討議しよう。

 売り場責任者の女性は徹底的に低姿勢で、謝罪を繰り返し、反論しなかった。当たり前だ。孤独なOJI-SANの怒りが心頭に達し店頭で刃物でも振り回されたらコトだ。(最近多いからな) それがOJISANにはクレーム慣れした常套句の連発のように感じられ虚しかった。どっかのテレビで最近キレる老人が増加し、その原因は時代と雰囲気に馴化できず、孤独や怒りを昇華すべき方法を持たない人が増えたからだなどと訳知りが顔に話すバカ解説者がいたが、そんな老人ばかりではない。怒る老人の大半は、OJISANのように正当(たぶん)な感覚を持って怒り、公害に近い「対人鈍感力」へのやるせない思いをぶつけているのである。

 

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墓碑銘『才能ある漫画家の父親だった』

 先日産経新聞の連載漫画「のんびりいこうよ」の赤羽みちえさんの父親についてふざけたことを書いた。ところがそのお父さんが突然亡くなった悲しみが漫画として掲載され、びっくりしてしまった。しかも、その翌日の産経新聞記事によれば、お父さんは近所の人々に非常に親しまれた方だった。OJISANは前のブログで「お父さんの人柄は良くない」云々と書いていたのだ。まったく見当はずれだった。OJISANは猛省している。赤羽みちえさんごめんなさい。

 よくよく考えれば、お父さんはOJISANと老後の処世について共通するところがある。同居しようという娘の申し出を断り独居して(漫画によれば)ゆったりとした愉快な生活を送っていた。最後は穏やかな孤独死を遂げた。OJISANのかねての信条は「孤独・沈黙・清貧・そして死」である。赤羽みちえさんのお父さんはそうしたOJISANの理想を一部体現した大先輩ではないか。学ぶべきところはたくさんあったのである。それを表面的にとらえふざけたことを書いてしまった。申し訳のないことであった。その文章はOJISANの愚かさを示し、我が身の絶えざる反省の材料としてそのまま掲示しておく。

 赤羽みちえさんの連載漫画は個性あふれるキャラクターがいなくなったことによってこれで終わってしまうのだろうか。介護を暖かく励ましてくれた漫画だった。これからも続くことを願っている。

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こころを支えることば その2

 新しい年を迎えて天気晴朗、なんとなく晴れがましい気分ではあるが相変わらずOJISANのこころは惑いに充ち満ちている。そのときどきの思いに応じて指針となるべきことばを選び、こころの支えとしているが、とりまく環境の変化が激しく数ヶ月前に神のご託宣のごとき思いでとりまとめた箴言、名言の数々もすでに効力が薄くなってしまった。

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こころを支えることば その1

 65歳になってもOJISANは短気で気が弱く、鈍感なのに神経質なところがあるなど矛盾に満ちた性格である。しかも、自己中心的な人生を送ってきたため友達も親身になってくれる人も相談する人もない孤独な生活をおくってきた。いかに「人は生まれてくるときも死ぬときもひとりだ」などとうそぶいてもこのごろは特に寂寥と不安の思いが強い。そんな自分のこころを支えるために古来の名言、箴言、あるいはだれが言ったかわからぬがひとり感動したことばを読んでは一時の支えとしている。

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朝火事

 遠くでサイレンが聞こえる。たいていの場合サイレンは先細って消え、静寂が戻るはずである。今朝はその次のサイレンが聞こえる。やはり遠く聞こえる。次も何台もの消防車のサイレンが続く。しかたない、念のためと思って冬のぬくぬくとしたベッドから起きあがり時計を見る。6時ちょっと過ぎ。窓を開けると隣家の軒の先に消防車の赤い色が見えた。人々の現場に駆けつける足音や声が急に耳に入ってきた。えっ こんなに近いんだ。と驚いた。

 それから急いで身支度して、外に出た。隣のマンションの上階付近から白煙が吹き出している。もうたくさんの人が集まり妙にひそやかにマンションを見上げ、消防士の号令、怒鳴り声がひときわ大きく聞こえる。マンション付近ではもっと野次馬が蝟集しているようだ。火元は7階の一室でベランダを通して居間に火炎が上がっているのが見える。どうやら全焼に近い。しかし、火元の左右上下の家には明け方の照明がともり、一日の暮らしの始まりを示し平穏に見えるのが不思議に思える。マンションの火事は類焼が少ないと言われているがそのとおりのようだ。そんなとき警察か消防車のスピーカーから野次馬を規制する声が聞こえてきた。「・・・・ご協力ありがとうございます。非常に危険ですから近づかないようにお願いいたします。」

 OJISANは野次馬に感謝の意を表しなくてもいいのではないかと思ったよ。お願いしなくてもいい。簡単には「邪魔だ、どけ!」少し強調したければ、「近寄るな、死にてーのか!」が端的でいい。野次馬は自分が万が一にも死傷するとは思っていない。しかし、消防士は命を懸けているのだ。立ち位置わずか3、4メートルの範囲で生と死の接線があるのだ。そう思うと消防士が「近寄るな、死にてーのか!」と警告したとしても非常に親切なことになる。OJISANの経験では群衆というのはやっかいな存在だ。どういうわけか前へ前へと出てくる。いつの間にか個人の意志がなくなる。とにかく人より一歩前にだ。攻撃的な群衆は闘争心とヒロイズムで迫ってくる。まさか火事場で消防士は攻撃されないだろうがだれよりも近くで見たいという意志が群れで迫ってくれば肝心の仕事に差し支える。いわば業務妨害をされているわけだ。それでも消防士は「近寄るな、死にてーのか!」とは言わない。言えばますます死にてー奴が出てくるし、業務妨害されることが分かっている。「・・・・ご協力ありがとうございます。危険ですから近づかないようにお願いいたします。」と言った方が群衆は協力してくれるのだ。かくして野次馬は安全。自分たちの仕事もはかどり併せて安全が確保される。日本人の心性はこうなのだ。消防署員や警察官の読みは深い。

 OJISANは思うのだ。こうした丁寧親切な警告、規制に併せて場面によっては、野次馬の頭上に灰神楽を振りまいてやるとか、間違ったふりをしてホースの水をばらまいてやるといったサービスをしたらどうだろう。野次馬、群衆諸氏は身をもって警告の意味を噛みしめ、さらに協力的になるのではなかろうか。また、平々凡々とした日常で突如として味わう災難に深く感動するとともに危機管理に対する思いを深くするに違いないから。

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クラシックにこころ惹かれて その2

 最近クラシック音楽を楽しむ人が多くなっているらしい。OJISANがなぜクラシックにこころ惹かれるようになったかといえば、何年か前職場の近くにコンサートホールがありちょっと覗いたことがきっかけとなっている。クラシック音楽のちょっとと言えばだいたい一回きりで終わりが相場だと思うのだが、そこでOJISANはOJISANなりに「連続する音の美しさを楽しめばいいのだ」と勝手に解釈してクラシックに開眼してしまったのだ。(こういうのは開眼というのだろうか)しかし、最近つらつら思うのだがOJISANはそんなに素直にクラシックを受け入れるほど柔軟なこころの持ち主ではなかった。ここに至るにはOJISANなりの切実な事情があったのではないかと考えるようになった。自分史のなかで曖昧模糊とした位置にあるクラシック指向の過程を自分なりに解明することがOJISANの行き当たりばったり趣味人生をもう少し秩序だった豊かなものにするのではないかと思うのだ。

 この10年OJISANをとりまく音楽事情は激変した。(と言っても生活と人生にはなーんの影響もない)まず、演歌が衰退した。近頃の歌番組に出てくる演歌系歌手は氷川きよしばかり目につく。誰も聞いてないけどカラオケ・ルームで演歌を歌うのも気が引けるこのごろである。英語混じりの歌が多くなった。歌詞の半分ぐらい英語だともの凄く奇妙。それから高音程の歌が多くなった。男でソプラノ系が目立つ。だみ声のOJISAN族には絶対出せない音域である。仮に出すOJISANがいたらその不気味さに周囲はみんなひくにちがいない。若い男でもかなり無理してのどを痛めている。だれでもどころかかなり特定の人しか歌えない曲が多くなった。さらに歌詞の内容も変わった。気になるのはとにかく励ましの歌が多いことだ。励まし、励まされもたれあい。かつてあった「男一匹(女一匹でもよい)どんとこい」はもう聴く影もない。やはり真面目な日本人は「オレがやらなきゃ誰がやる」式根性の歌も好きなのだ。こうして並べていくとOJISANをはじめかなりたくさんの人が演歌もJ-POPも歌えなくなっているのではないか。だが、OJISANは音楽は好きだ。音楽は日常の癒しだと思っているし、追いつめられたあげく、歌えないし、もちろん演奏もできないが考えもしなかったクラシックに漂着してしまったようだ。また案外そういう人は多くて最近のクラシック・ブームにつながっているのではないか、というのはかなり飛躍した発想だろうか。

 OJISANはクラシックがかつての懐かしい歌える演歌やロックやジャズ、J-POPと並ぶカタルシスを与えてくれることに気がついた。映画「アマデウス」につかわれるモーツァルト交響曲第25番:第1楽章、同じく映画「みじかくも美しく燃え」につかわれるモーツァルトピアノ協奏曲第21番:第2楽章、ラッセル・ワトソンの歌う「主よ、わが思いよ、黄金の翼に乗って」のロマンチック、これは合唱もよい。もともと合唱曲なんだから。サラ・ブライトマンの歌う「ジャンニ・スキッキ」の中の澄み切った「私のお父さん」、みんなみんないい。そのほかにもたくさんある。一度聴いてみてはいかがですか。OJISANは老後の宝箱を発見したようだ。

 

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中国人との会話

 先日飛行機に乗ったら座席の回り全てアジア人のツアー客に囲まれた形になった。騒々しい会話を聞いていると中国語であるようなそうでないような言葉である。隣の座席の二人連れはツアーに加わった新婚さんのようだった。OJISANは離陸後イアフォーンで音楽を聴いていたが飲み物のサービスが来たので、イアフォーンをはずしカップのジュースを飲み始めた。たまたま隣席の若い男と目があったので、中国語で「あなたは中国人か」と聞いてみた。すると中国人だと言う返事があったので、次に北京人か台湾人かと聞いた。政治的にまずい雰囲気になると困るという配慮が働いたのである。そうすると自分たちは広東人だと言う。なるほどさっきからの会話が中国語(北京語)に聞こえなかったわけだ。会話は広東語だったのである。OJISANは40年前に大学で中国語を習っておりこの程度の会話はできるのである。ただし、政治的にまずい雰囲気を生み出すほどの会話力はない。考え過ぎだった。

 それからカタコトの中国語と英語の断片と筆談で会話が始まった。彼等は新婚で広州市に住み、ツアーに加わり日本各地を観光し、これから東京に向かい明日は広州に帰るのだと言う。我々の会話理解は互いにかなり苦労していたので声も高くなったのか、周囲の関心を惹くことになり、「どうしたの」と後ろの席から新婚さんに聞いてきたり、前の席からは英語で通訳してくれようとしたりで、実は会話の三分の一も内容は分からなかったのだがかなり友好的なやりとりで終始することになった。そして最後には「再見」で握手をして終わった。40年ぶりの中国語だったが、まあ こんなもんだ。

 ここでのOJISANの自慢が中国語での会話力だと思うだろうがそうではない。OJISANが自慢したいのはズーズーしさである。外国人と会話したかったら単語を多少知ることではない。発音の良さでもない。OJISANに言わせればズーズーしさこそ最善、最強の会話力である。イタリアでもスペインでもこれだけで意志を伝達してきた。ズーズーしさこそOJISAN族最強の武器である。OJISAN族の中には外国人が相手となると急にしおらしくなる者もいるが、真のOJISAN族であるOJISANはいよいよのときは日本語で相手に理解してもらった(と思う)こともある。OJISANには全世界の人間はどこでも同じだという確信がある。つまり込み入った話をしなければ会話のパターンは似たようなものである。この武器を使えば現在は外国人との会話が苦手だという人もいずれはOJISAN(同族にOBASAN族がいる。こちらはもっと図太いと思う。)になることを考えると国際理解の前途は非常に明るいと思ってよろしいのだ。希望を持ってがんばろう。 

 

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クラシックにこころ惹かれて

 8年ほど前からクラシック音楽にこころを惹かれている。8年前の春、OJISANが勤務するカンパニーの近くに大きな公園があり退勤後の散歩でふらっと入ってみたのがそこにあるコンサートホールだった。ちょうど大学交響楽団の演奏会があり、入場料は千円だったからいっときの休憩のつもりである。ところがOJISANは感動した。たかだか千円の格安で2時間こんな癒しを得るとは思いも寄らなかった。しかも掲示されている予定表を見るとこのような演奏会がたびたびある。それから時々OJISANは聴きに行くようになった。この出来事でクラシック音楽は肩の凝るようなものではない。散歩の途中で聴いても良いのだということが分かってきたのである。

 子どもの頃からクラシック音楽を聴くことに抵抗感があった。クラシック音楽は厳粛な、特別な雰囲気があって、つまり自分には場違いだという屈折した思いこみである。紳士淑女として正装し、緊張して微動だにせず傾聴する「音楽芸術」というのが、映画の場面などからOJISANに刷り込まれたトラウマとなっていた。その場において洟など啜るのは非難囂々の視線を浴びる屈辱の時間になりかねないというぐらいの感覚である。OJISAN世代のかなりの人々はそういう感覚を引きずって生きてきた悲しい歴史がある。それが日本のクラシック音楽が一部愛好家にしか支持されてこなかった理由なのである。はなたれガキ大将だったOJISANはそんな場所はハナから敬遠する。そういえば小学校の音楽室に貼ってあった肖像画の大音楽家たちも怖そうに睨んでいた。OJISANの世代が小学校で怖かった場所はトイレと職員室と理科室と音楽室なのである。

 OJISANはクラシック音楽の何かが分かったわけではない。何も知らないが、ただひとつOJISAN流に解釈すれば特にクラシック音楽は「音の流れ」を聴くことではないかと思っている。美しい音、癒される音、心地よい音、心に響く音などの連続を聴いてこころに取り込んでいく過程が音楽を聴くことなのだと思っている。人間はその音を聴くことで快感や癒しを得る動物なのだ。それで言えば過去の西欧のクラシック音楽作曲家たちの作品は「魂に響く音」を追求した結果である。本当に美しい音やこころが癒される音はあるのだ。

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OJISANはマニュアル社会が嫌いだ!

 先日あるドーナツ店の前を通りかかった。両手に荷物だったが買いたくて店に入ってみるとトレイとトングが台に置いてあって「ご自分でお取りください」なる張り紙があった。それが難しい状態だったので女店員に取ってくれない?と頼んだら「ご自分で」と断られた。内心「見たら分かるだろうが、取れるくらいなら頼まないよ。じゃ、お前の役目はなんだ。案山子か?」とたちまち怒気(殺気)あふれる顔つきになったに違いない。少し離れたところにいた中年のおばさん店員が「私が取りましょう」と言ってくれた。ほんとに最近の若い女の子はいやなんだよ。言われたことしかやらないから。この場合も店長かなんかがそう指示したのに違いないが、例外もあるのだという教育もしないと絶対動かない。人間の形をした自販機みたいだ。臨機応変とか気働きのできる有機体としての心豊かな人間が少なくなった。

 最近スーパーなどでレジ係りに「こんにちわ」と言わせているところがある。だからこちらも「こんにちわ」と挨拶すると一瞬引きつったような顔をするのがいる。明らかに返事は期待していないので動揺するのだ。若い者にその話をしたら「レジの挨拶にへんじをするのはバカだ」そうだ。ほかのスーパーやコンビニでもこの手の挨拶に返事をしてやるとだいたい微妙に表情が変わる。客にいい印象を持ってもらいたくて「こんにちわ」と言わせるのだろうが、挨拶というのは互いに相手の存在を認めるという精神的働きを持つ。挨拶を返されてびっくりするというレジ係りは、びっくり装置付きロボットレジに違いない。客に「こんにちわ」と言われてにっこりする温かいレジ係こそリピーター客を増やす。お客対応のマニュアルにつけ加えてもらいたい。

 長距離バスの中で食べようとターミナル近くのハンバーガー店に寄った。他に客はいないし、急いでいた。若い女店員に(書いておくが、若いお姉ちゃんたちを嫌っているわけではない)注文した。できたら呼ぶからと10メートルくらい離れたところの椅子に座って待ってろと言う。何であんな離れたところで待たなきゃならないんだ。他に客もいないのに。たちまち頭にきて、つい「すぐできるんだろ」とドスのきいた声でうなってみせたが、彼女は無表情に「そうなってます」と言う。OJISANの殺気は極点に達し、必殺の一言を発しようとしたとき、そばの若い男店員が「私がやりましょう」と言って、手早く仕上げて包み、渡してくれた。

 某航空会社キャンセル待ちカウンターに近寄って「空席ある?」と聞いたら「お呼びしますから少し下がってお待ちください」と2、3歩うしろの床の線を指す。割り込みしたわけではない。他に人はいない。うっとしたが、しかたがないのでその線まで下がって立った。そしたらにっこり笑って「お待たせしました。次のかたどうぞ」だと。信じられない。

 小学校の横、信号機のない横断歩道は幅5メートルくらい。車の姿はない。午前9時ごろでもう小学生の姿はない。だから緑のおばさん(と言うのかな今でも)は知り合いのおばさんと話に夢中。こういうシチュエーションでOJISANも道を渡ろうとのんびり一歩を踏み出した。とたん、黄色い旗の柄がひじのあたりをおさえ、鋭いひとこと「待ってください」ときた。待てったってオレ63歳、車もいないよ。悪い見本を見せたくない小学生もいないよ。とテレパシーを送ったが旗の柄は厳しくOJISANを拘束すること30秒「どうぞ」の声で解放された。おばさんは職務を果たした。OJISANはなんかよけいなお世話じゃないのというか、ちょっと苦い思いで道を渡った。道路を横断することって大変なことなんだ。

【OJISANの無知と無理、独断と偏見に満ちたつけたし】

① 知力・能力・意欲が不等で行動や労働にばらつきがある人間に一定の指標にしたがっていればほぼ平均的な成果をあげさせることができるとして軍隊をはじめ、一般社会にも行き渡ったアメリカ合理主義が発明した各種、各分野の手引き(マニュアル)に端を発する。猿まね日本も取り入れ、いまや本家をしのぐ勢いでマニュアルバカを生み出している。

②たまたま女性の例ばかりになってしまったが、女性に恨みはない。ただ、一般的に女性はまじめで規則を守り、原則に忠実なところがあるため意識せずしてマニュアルにハマるのではないだろうか。それは先の例で言えば、客が言うことを聞かなければ、ドーナツは売らない。レジは打たない。ハンバーガーは売らない。キャンセルチケットを回さない。横断歩道は渡さない。などのプチ権力の保持によって強化される。

③あるいは単にOJISANが女性たちに嫌われているというだけなのかもしれない。なにしろOJISANは体臭はあるけれどもオーラもフェロモンもない。蛇のような目で女を見るし、はげてるし、声はでかいし、体もでかいが足は短い。イボはあるし、水虫もある。こういう男はいじめたくなるだろうな。悪い予感がするけれど、願わくば③でないことを祈りたい。

 

 

 

  

 

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かわいそうな「駄」の字

 ふと考えたのだが、「駄」の字はかわいそうだ。いいところがない。ざっと考えるだけで駄作、駄菓子、駄洒落、足駄、駄賃、荷駄などとよからぬ意味しか思い浮かばない。そんなに悪い意味しかないのかと広辞苑を引いてみると「つまらないもの、粗悪なもの」とか「馬一頭に負わすだけの重量」とか「酒三斗五升入りの樽二樽の称」なんていうのまであり意味の範囲が広い。どうもしまりがない。

 これがいいところがなさそうな「悪」の字だったりすると悪党、悪人、悪魔、悪辣、悪徳、悪趣味などの熟語が即座に思い浮かぶ。この「悪」の字にはなにか少しうしろめたいがロマンを感じないでもない。さらに同じく「淫」の字などになると姦淫、淫猥、淫行、淫乱、淫婦、淫獣、淫酒、手淫などと並ぶ。OJISANの若いときなど「淫」の字を本の中に発見するだけで、そっと辺りを見回したりして、文章を読み進む集中力と想像力が増したりしたものだった。それに比べると「駄」の字はやっぱりかわいそうだ。色気もロマンもなく依然として「下駄」で踏んづけられ、「駄目」で無視され、「無駄」で抹殺されている。

 

 

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