『カポーティ』
最近OJISANはシネコンで上映する旬の映画を見逃すことが多くなった。なんとなく腰が重くなって出かけない。これも老化の現れとすると自称映画好きとしては情けないことだ。スクリーンで観る機会を失いしかたなく借りてきたDVDで「カポーティ」を観た。日本人で「カポーティ」の名を知る人はそれほどいるとは思えない。だから映画を観る人々のこころのなかでこの映画はどんな位置づけを与えられているのか興味がある。大きく分ければ、ひとりの作家が実際の殺人事件と実在の犯人に興味を持つ心理の綾を描いた地味な作品ととらえるか、新しい小説形式を生み出した傑出した作家を描く記念碑的映画ととらえるかのどちらかだろう。どちらにしても最近の派手ハデ映画の傾向に慣らされている人々にとって魅力のある映画になっているとは思えない。
OJISANもカポーティのことはほとんど知らない。都会的作風で、「ティファニーで朝食を」を書いたとか、ホモ・セクシュアリティーらしいとか、ちょっと変わってる奴だと言われていたとかの程度だ。「変わり者」は作家の勲章だから付け足しみたいなものだ。それにOJISANは「ティファニーで朝食を」も読んでないし、映画も観てない。なのに偉そうなことを書く。OJISANの悪癖であることは以前宣言しているはずである。ただ、OJISANは何十年か前に「冷血」を買って読んでいた。ノン・フィクション・ノベルズという本の帯に惹かれたからだ。読んでみてそれほど変わった小説には感じなかった。OJISANの鑑賞眼(批評眼)の限界である。今では誰でも彼でも書くような小説だが、いま思うにやはり当時としては新しい手法の小説であったと思う。原作を映画化した「冷血」という映画も観た。モノクロで、主演俳優はだれか忘れた。こちらは怖かった。迫真的だったと思う。特に犯人のひとりベリー・スミスが小説に即して精密に描かれていた。「カポーティ」ではちょっとベリーの人物像が軽い気がする。そして、今回「カポーティ」を観たかったのは、カポーティという作家はどんな人?という素朴な思いからである。主演のフィリップ・S・ホフマンは鬼気迫る演技でカポーティに迫ったと批評されているようだ。だとするとOJISANがそれまでもっていたイメージとだいぶ違っていることが分かった。カポーティはもっと骨太な男だと思っていたのだ。
次なるノン・フィクション・ノベルズを期待してたのにトルーマン・カポーティはこのあと作品を出していない。消えてしまった。アメリカの作家はサリンジャーやカポーティのように突然作家業をやめてしまうことがある。OJISANの独断と偏見によれば、国によって近現代の作家の身の処し方に特徴がある気がする。日本の作家は行き詰まる(成熟する)と自殺する。フランスでは成熟する(行き詰まる)と政治に走る。イギリスでは社会的地位を獲得すると作家になる。チャーチルとかフレミングとかジェフリー・アーチャーみたいに。ところでカポーティはどうして書けなくなってしまったのだろう。ニューヨークの知的セレブの間ではいつも話題の人であったらしいのに。人のナマの生と死を直視しすぎたからだろうか。俳優フィリップ・S・ホフマンの演じたカポーティは確かに繊細に見えた。
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