OJISAN「裁判員制度」をちょっと考えてみる

pen私たちの国で8月3日から一般の人たちが参加する「裁判員制度」が始まった。新聞もテレビも連日大騒ぎである。あんまり興味がないけれど事細かに報じてくれるので読み流しでも聞き流しでも何となく頭に入ってくる。それで今朝ふと考えたことをネタ切れ気味のブログに書いてみようと思いついた。そんな程度の「裁判員制度」小論である。

 まずOJISANは「裁判員制度」による司法への一般人参加賛成である。今まで立法と行政は一般の人でもその気があれば司法の世界よりもはるかに参加する機会が与えられてきた。なのに三権分立の一つ司法だけは倍率何十倍を突破した専門家だけのものであった。主権在民の民主主義制度下ではごく普通に考えればこれってヘンなのである。重要な権力のひとつが選ばれた一握りの人々の欲しいままにされてきたのだから。

 catfaceだが、従順なOJISANは今まで何の疑問も持たず、司法に限っては距離を置きたがり、それのみか当初は「裁判員制度」という法律がOJISANを縛ってタダ働きをさせる制度と受け取っていたのである。無知も底抜けだがほかの人の司法世界の受け止め方も似たり寄ったりかも。だが、実は裁判員制度は司法権力の一部委譲なのである。権力の一部を委譲するから責任も持て!というわけである。くれるなら金の方がいいのだがうまい話はなかなかないね。

 chair司法(裁判)のエリートは裁判官、検事、弁護士である。裁判官と検事は「裁判員制度やるぞ!」という体制側だから本音はともかくあんまり文句は聞こえない。弁護士だって実力のある人はどんな状況に置かれても的確な証拠主義、透徹した弁論、立場の弱い被告を思いやる人間性で無罪を勝ち取ったり、罪の軽減を図るのである。しかし、弁護士の一部は反対、反対、ハンターイとうるさい。その理由をOJISANは意地悪く推論してみる。①オレが苦労して獲得した陣地の一角でも一般人にとられたくない。②正義の味方、唯我独尊の弁論を一般人に裁定されるのは耐えられない屈辱である。③やる気のない弁護、覇気のない弁論を一般人にさらしたくない。などであろう。

angryこういう人たちがよく言うのが「外国ではやってない(やっている)」という言葉だが今回は聞かれない。映画などで知られるアメリカの陪審制はもちろんのこと、今や英国、イタリア、フランス、韓国、(ロシアだって)など多くの民主主義国で類似の裁判制度は稼働しているのだそうだ。「一般の人は判決を下す立場の重みに耐えられない」という反対理由もあるが、それじゃ日本人だけは公共のために苦しみを分け合って引き受ける気概のない、利己主義に固まったひ弱な人々の集まりということなのか。法治主義のもとで公平、適正な判断を下す能力のない国民と言うことなのか。

 OJISANがもし裁判員に選ばれて「死刑を選択せざるを得ない」立場に置かれたなら慎重に、慎重に考えた上で死刑の選択にも組みすると思う。社会共同体の一員としての負担である。(我ながらなんてエライのだろう)決まったことに苦しまない。

 sandclock実はOJISANはひところ霞ヶ関・虎ノ門の官庁街を歩くことがあって、暇つぶしに何度も東京地裁の裁判を傍聴したことがあったのだ。面白い裁判は一つもなかった。退屈だったが怖いところではない。身近な、たしかに社会の縮図が見られるところだった。

 裁判員になるのは何百人に一人だそうだからOJISANはたぶん当たらない。当たらないと信じている。生涯くじ運は悪いのである。はたして良いのか悪いのか分からない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

『トムラウシ』

 OJISANは山登りが好きでいろいろな山に登った。特に北海道の大雪山系は大好きだった。しかし、「大雪山」という山はない。北海道の中央に広大な山塊が盛り上がりそこに幾つもの山がさらにあちこちボコボコと盛り上がっているという形状の全体をさして「大雪山」と総称している。

 いったん山塊の上に登ってしまえば一日で主峰旭岳とか黒岳とか緑岳とか白雲岳とかだとわりに簡単に縦走できてしまう。本州のように千メートル単位で上り下りするような縦走にはならない。一日限りの登山者はロープウェーのある旭岳と黒岳に集中する。そこで満足する。だが、本当にいいのはそこから先なのだ。登山者はきわめて少なくなり単独行を好むOJISANには風の音も静寂も花の群落も全てが我が身ひとりを包むように感じられるのだ。天気のよい7月、8月に高山植物が咲き乱れ、残雪が陽光に光る山道をポックラポックラひとりで歩いていくと天上の楽園にも思われて、実にのどかな楽な山歩きに感じられる。だから夏になるたびに出かけたものだ。

 トムラウシは大雪山塊の最深奥にある。まさに絵になるいい山である。トムラウシの向こうは十勝山域になる。トムラウシには直登コースもあるが上級者向けで10時間以上かかるハードな山行になる。そんな登るだけにがむしゃらになる山行は嫌いだ。そのためOJISANが、トムラウシ方面に向かうときはロープウェーで黒岳に登り、白雲岳避難小屋に泊まり、翌日高根ヶ原をのんびり歩き、忠別岳避難小屋に泊まり五色岳から化雲平を通ってヒサゴ沼避難小屋に泊まってと三泊もかけて、それなのに翌朝目の前のトムラウシ山には登らなかった。疲れていたからである。OJISANは単独行でこんな山奥で動けなくなったり、怪我をしたらヘリコプターで運ばれるはめになることが怖かった。そんな恥ずかしい立場には絶対なりたくなかった。OJISANはきわめて用心深いのである。臆病なのである。OJISANはヒサゴ沼から同じ道を辿って引き返した。

 以来、五色岳、化雲平までは何度も行ってそこからトムラウシの山影を堪能したが登ったことはない。もうこれから登る機会も体力もない。OJISANにとってトムラウシは登りたかったけれど登れなかった永遠の山になったのである。

 7月17日トムラウシで中高年ツアー登山者8人が死んだ。みんなOJISANと同年輩である。なんとトムラウシ山行経験のない登山ガイドに連れられて屠所に引かれる仔牛のように死んでしまった。天気が悪いから自分は止めたいと言えなかったのだろうか。「山で死ぬのなら本望だ」と言い残した人や「歳だからこれが最後」と言って登った人もいたというから悪い死に方ではないが残念だ。OJISANのように登れなかった山が一つや二つあっても良いではないか。それが山屋のロマンだと考えても良いではないかと思う。

 立派なメタボ中高年のOJISANはいまウォーキングに励んでいる。今朝はトムラウシと死んでいった人たちのことを考えながら歩いた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

『ターミネーター4』

movieアーノルド・シュワルツネッガー主演の「ターミネーター」から4作目。そもそもこのシリーズの最初の作品について言えば、ともすると無機的になりがちなS・F映画であるにもかかわらず登場する人間(人類)の心情を巧みに描く意外性にOJISANは惹きつけられたのである。

 特にターミネーターの攻撃から生き残ったサラ・コナーが未来の人類の希望である子を身ごもり、愛する人を失った悲しみとともに強く生き抜いていこうとする最後のシーンの哀切感にOJISANは強い衝撃を受けた覚えがある。サラ・コナーを演じるリンダ・ハミルトンは表情だけでその全てを表現していた。そこには従来のアメリカン・サイエンス・フィクション・ムービーにはまれだった豊かな人間精神が表されていたのでOJISANはごく自然に感情移入ができたのである。長く記憶に残る場面だった。この最後のシーンだけで「ターミネーター」が単なるアメージングの「ロボットもの」映画となることを免れたと思っている。「ターミネーター」の最後のシーンは多くの人々のこころに訴えるものがあった証拠に、悲しげなサラ・コナーの写真がシリーズの毎作ごとにチラッと示されるのだと思っている。

 2作目まではまだ良かったが、3・4作目になるとその叙情性は失われてしまいだんだん作りが派手になってきた。それとともに機械的世界が展開してゆき、果ては(演じられる)真正人間さえも人間離れしていく。期待したものとはかけ離れた異和感で終わるのである。

  

| | コメント (0) | トラックバック (0)

介護でつぶれないための5つのヒント

 昨年の12月のブログ記事を最後にOJISANは消息を絶ったがこのたび復活することにした。記事を書かなかったのに深い理由はない。怠け病に罹ったのである。なんかメンドクサカッタ、それだけである。

 OJISANが老母の家に通って3年、引き取り同居して2年介護しているうちに介護の世界も変わってきた。特徴的なことはOJISANのような中高年男の老親介護が脚光を浴び始めたことである。5年前の介護の担い手イメージは一般的に娘とか嫁など女性たちであり、男が介護しているなんていうのは親の弱みにつけこむバカ息子の危険な家庭内暴力とか介護はおろか生活維持のノー・ハウも持たずオタオタと振る舞うバカ息子のイメージが先行していて、母を介護してますなんてうっかり言えない雰囲気だった。ところがいつのまにかOJISANのような状態の中高年男が増加して、もはや家庭介護者の5人に一人は息子とか夫なんだと。状況は気味が悪いほど風雲急を告げているのだ。新聞やテレビでもそうした実情を伝える報道が多くなってきている。ご同輩が多くなって喜ぶべきか悲しむべきかそれが問題だよ。ウィリアム君。

 男の介護者もトクなことがあるのだ。母を車椅子に乗せて歩いていると見知らぬ女性が挨拶してくれたり、微笑みかけてくれたりするのだ。誉めてくれる人もいる。もうそれだけで母の迷惑顧みず毎日のように車椅子で連れ出す。なにしろ今まで女性に笑われても微笑みかけられたことなんかなかったもんね。願わくばもっと若い女性であればなおさらにいいんだけど。それにケア・マネージャーさんもヘルパーさんも男の介護はなにも分からないだろうと懇切丁寧だし、親切に対応してくれる。だから知っていることでも分からないふりをする。OJISANがいちばんモテるのは母の仲間たちからである。出会ったりすると「・・・・さんいいわねー。息子さんにめんどうみてもらって・・・・」とOJISANの顔を憧憬のまなざしで見つめるのである。母は実態も知らないで、と舌打ちしている。

 こうして何年か実体験を積み重ねているといくらボンクラOJISANでも「介護の心構え」みたいなものが固まってくる。最近OJISANなりの介護の心構えをまとめてみた。みんな新聞記事やテレビや介護本からの受け売りであるがOJISANのこころを癒してくれるには十分である。この5つがいまのところ我が心を助けてくれるのだ。

smile介護でつぶれないための5つのヒント

①自分の時間と健康を大切にし、自分のQOLを保つ工夫をする。              

②「介護の意識」から離れる時間をつくり、人に頼る勇気を持つ。              

③できるだけの努力はするが、「完璧な介護」など存在しないと思う。            

④したいことがあれば「介護が終わってから」ではなく、いますぐ始めてみる。

⑤「介護」で悩んでいるのは自分だけではない。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

『ドリームズ・カム・トゥルー』

 最近レンタル・ビデオ店に面白い作品が入らない。お目当ての「ホット・ファズ」は新作だからすでに借りられてしまい棚にない。しかたがないのであれこれ物色して、たぶん癒し系だろうと考えて「ドリームズ・カム・トゥルー」(原題名 Akeelah and the BEE)というのを借りた。完全に暇つぶし用である。ところがOJISANにとってはこれが意外にあたりものだった。感動した。

 アメリカ映画で、どんなストーリーかというと、簡単に言えば11歳の少女がスペリング大会に参加して全国大会で優勝するという話である。こういう大会は日本にはない。英語は表音文字文化であり、全部で26文字しかない。各単語が26文字の組み合わせでできているのはご承知のとおり。余計な話だが、むかし学校で英語を習い始めた頃はたった26文字だけとはなんてラクなんだろうと無知きわまりないことを考えていた。それがのちのち果てしなく続く英語学習地獄めぐりの始まりだったのはたぶん多くの皆さんも同じであろう。

 日本語の文字文化の中心は表意文字すなわち漢字である。一文字ずつ意味とともに覚えて行かなくてはならない。それは始まりであり加えて日本文では平仮名、カタカナ、ローマ字(ご丁寧に訓令式とヘボン式まである)も組み合わせて構成される。その煩雑さたるや日本語は「悪魔の言語」だと西洋人のだれかが言ったそうだがまったくナットクできる。それに比べてアメリカ人は幼児のときから英語をしゃべる。その口から出てくる音をそのまま26文字で表せばいいはずなのだが、各単語は固有の「つづり」がある。超難解な単語であれば20文字ぐらい当たり前のようだ。一文字でも間違いは間違い。意味まで変わってくる。アメリカの中学生以下の国語学習目標のメインのひとつはいかにたくさんの単語の「つづり」を正確に身につけるかにあるようだ。優等生の条件のひとつである。OJISANはアメリカではつづり方コンクールの全国大会まであることを映画「ドリーム・カム・トゥルー」で初めて知った。

 そういえば、つづり方大会の話は不朽のアメリカ文学「トム・ソーヤーの冒険」にまで描かれていた。大好きな女の子の目の前で、学校の「つづりかた大会」でズルをするトム・ソーヤーの大失敗が描かれるほどに「つづり方大会」(Spelling BEE)はアメリカの歴史と文化の華なのだ。・・・・・・つづり方を題材とした文学・演劇・映画は多数に上るに違いない。「綴り字のシーズン」という映画もあった。この映画はなんとリチャード・ギア様が主演なのだ等々知ったかぶりの半端なウンチクをあれこれ書いて非常に疲れた。身に付かない無理はしない方がいい。

 飛躍した話になるかもしれないが、なぜ日本の学校教育では全国規模でこれに類することをやらないのだろう。スポーツの全国大会は山ほどあるのに。ここ十年漢字検定を行う団体が活動してきてようやく定着してきたと思ったら検定の収入が大きすぎて創設者の理事長が団体を私物化してしまいなんか漢字の勉強も汚された雰囲気になってきた。アメリカの「spelling BEE」のように日本版「漢字大会」も野球やサッカーに並ぶくらい文化系イベントの「華」になってもいい気がするんだけれどね。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

『井伊直弼の首』新潮新書

 著者は野口武彦氏。副題に「幕末バトル・ロワイヤル」とあって主題の井伊直弼のことばかり記述した歴史評釈(歴史評論?)ではない。むしろ井伊直弼出現に至る幕末の諸現象と人間模様をバトル・ロワイヤルとして捉え、評釈を加えた本と思う。ただ全ては井伊直弼のクライマックス(桜田門外の変)に収斂されていくのでどうしても主題は「井伊直弼」になる。

 著者は幕末の政治・経済・社会・人間の動きについて特に新奇の説は唱えない。斜めにも構えない。もちろん裏読みもしない。事象の定説に忠実であるから安定感がある。ただ、もろもろの事変や登場する歴史的人物についての記述に当時の名も無き人々の実見談、感想記を引用、多用しているのでちょっと横から見ている気分を感じる。横から見ているだけで事実は変わらなくても歴史というのはこんなにも変わって見え、ある意味生き生きとしてくるものなのかと思うのである。歴史はこんな風に楽しくなくてはいけない。「幕末バトル・ロワイヤル」の副題は実にいい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

『靖国』

 見たいなー。でも、見たくないなー。と思っていたが、レンタル・ビデオ店に「靖国」DVDがあったので借りてきた。中国や韓国の人々は「靖国神社」と聞くとこころがささくれるだろうが、OJISANはそんなでもない。しかし、製作監督が戦争当事国(被害国)の人となれば例によって被害者意識まるだし。加害者非難オンパレードだろうと勝手に想像してしまってOJISANのこころは見る前からささくれるのである。ついでに書けば、このドキュメンタリーは日本の文化庁から制作補助金が出ているそうで、よりによってなんで絶対問題になりそうな微妙なテーマに補助金なんか出すんだよ。いつものとおり「問題先送り」「波風立たず平穏無事に」という官僚の常識を発揮しておけばいいのになんて思っちゃうのだ。そう思うOJISANもどうしようもない根性の持ち主だと思う。とにかくこころがヒリヒリするかもしれないDVDだと思うので冒頭のような感想になった。

 それで見たけど、そんなに問題になるようなドキュメンタリーではないと思った。「靖国」と「外国人監督」の掛け合わせというだけでちょっと過剰反応。騒ぎすぎ。まあ、ふだん「靖国神社」にはクール(というか 無関心)な日本人も国内的に問題含みな点があることを感じていてこんなことがきっかけでちょっとこころが騒いだのかも。一時上映反対だの妨害だのということになったがあれはまだみんな見てないうちの想像の結果だった。だから見た人から順番に双方の立場からの反発も非難も熱が冷めて行った。騒ぎになったから宣伝になってより多くの人が見たかと思うと妨害騒ぎが嫌で上映を取りやめた映画館もあるからプラスマイナス・ゼロがOJISANの予想だ。レンタル・ビデオ店のDVDもたった一枚しか置いてなかった。たった一枚だよ。こんなのだれも関心ないんだよ。ある意味今の日本人て情けない。

 映画は、靖国神社に参拝する人々の心情を意外に丁寧にとらえている。一部アナクロニズムそのものの人物もいてバカバカしいというか笑っちゃうんだが、いつもいるんだよ。こういうのが。庶民はちゃんと分かっている。自分は弾の飛んでこないところや立場にいて、終わると自分一人で戦争したような顔で出てくるやつが。逆の立場で、「自分はこの戦争は負けると分かっていた。」とか「自分は反対した。」とか言うやつ。全部うそつき。この戦争では死んだ人間だけが本物だ。非難されるべきはKYで負ける戦争をした戦争指導者たちだ。南太平洋でアッツ島でフィリッピンで硫黄島でその他各地でまじめに、真剣に戦って死んでいった人々が祀られる靖国神社にOJISANは反対ではない。妻の父が沖縄戦で戦死したという個人的理由もある。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

『大統領の料理人』KKベストセラーズ

 book 副題に「厨房からのぞいたホワイトハウス11年」とあって、1994年から2005年まで、ホワイトハウスのエグゼクティブ・シェフを勤めたウォルター・シャイブの回想記である。

  シャイブ氏は、ホワイトハウスにおいてクリントン及びブッシュの両大統領に料理人として仕えた。なかでもクリントン時代を懐かしく回想している。なぜならシャイブ氏はヒラリークリントン夫人に面接され、その結果採用されたからである。野次馬のOJISANも含めて読者としてはホワイトハウスにいたと言えばまず語ってもらいたいのは、ホワイトハウスの政治の秘密と主人たちのスキャンダラスな生活の暴露である。特にクリントン大統領はその種の話題を豊富に作り出したことが知られているので期待していた。しかし、この本でシャイブ氏が徹頭徹尾語るのはホワイトハウスでの料理であり、料理にまつわるホワイトハウスの内情である。シャイブ氏は冒頭で「自分は政治には世間並みの知識・興味しかない。住人のプライバシーも語ることを好まない」と書いて読者に引導を渡している。

  最初の宣言のとおりシャイブ氏は、大統領とその家族の内情は書かない。書くとすればほほえましいアメリカ型スィート・ファミリーの側面だけである。その意味でシャイブ氏の人柄の良さが分かる。たぶんヒラリー・クリントンの採用条件には「口の堅さ」も入っていたのであろう。この本の面白いところはホワイトハウスで作られた料理のレシピが紹介されていて、あなた達にもホワイトハウスで出され、「大統領と家族の食べているものと同じ料理が食べられますよ」という配慮がなされていることだ。これもたぶんシャイブ氏の人柄によるものと思う。また、シャイブ氏は自分の仕事を書くだけでなく、自分の家族のことも暖かく、何気なく書く。これも家族を大切にするアメリカ人を体現していて好ましい。

 9:11のときのホワイトハウスの緊迫したありさまも書かれている。ホワイトハウスの管理責任者や警備担当者でなく、一従業員の目で見た混乱の観察であって、内部の危機管理が実際はどうであったのかよく分かり興味深い。でもホワイトハウスでは緊急の際にはみんな地下の秘密基地に避難するのかと思っていたらそうじゃなくてバラバラに外に逃げ出すなんて面白くも何ともない。なんとかしないと一度あることは二度あるよ。油断大敵run

| | コメント (0) | トラックバック (0)

『なぜ君は絶望と闘えたのか』・・本村 洋の3300日・・新潮社

 光市母子殺害事件の公判があるたびテレビのニュースに取り上げられる本村 洋さんの発言を聞き挙措動作を見ていた。そして、家族愛と正義の名において厳格な法の裁きを要求する論理と姿勢をOJISANは本当に立派だと思った。この人の考え方や姿勢をつくったのは残念ながら妻と子を殺害され、犯人を裁く裁判の過程が大きな要素となっていると思うがそれだけではあるまいという思いがあったのでますますこの人は何者なのか知りたかった。

 この本を読んで分かったことだが、本村 洋さんは高校時代から人生を変えるほどの病気と戦ってきていたのだ。OJISANであればそれだけでそうとうメゲた生き方をしただろうが彼は立ち直っただけでなく妻子を殺され、理不尽と思われるような司法による犯人擁護と戦う力まで蓄えるに至った。しかし、それは結果論で本村 洋さんは鉄の男ではない。絶望して死を考えたことも幾たびかあったようだが、周囲が彼の絶望を癒し、支えたからこそ力を蓄えたとも言える。少なくとも本村 洋さんには周辺の人々が彼を支えてあげなければならないという思いに駆られる人間的魅力があった。

  徒手空拳に近い本村 洋さんの戦いが人間的で雄々しいものだったのに対して、いわゆる司法の専門家たちの動きは空疎だった。裁判官の犯人に対する形式的な人間把握、専門性の感じられない相場主義の判決、そして、なかでも信じられないような弁護士の弁論は、従来の「弁護士は正義の味方」という期待を裏切るものだ。ある時点から弁護士たちは完全にしろうとの本村 洋さんに負けていた。弁護士たちには、勝つためには極端に事実をねじまげ詭弁を弄し、死者を冒涜するがごとき弁論も許されるのだとする傲慢が見え見えだった。大目的は被告を死刑から救うことだったためだと思うが、この事件公判の経過が影響したことは確実で日本の死刑廃止運動はかなり後退したものと思う。それとも、あの弁護士たちは「死刑制度のかくれ支持者」で死刑制度を維持するためその活動は被告の命をかけた高等戦術だったのだろうか。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

もう遅い

pencilOJISANのブログは自分の等身大にふさわしい日常の思いつきをポツポツと書くことが目的だ。だから政治とか経済とか地球とか世界とかの話題は大きすぎて本来無縁と思ってきた。しかし、最近の気候変動のニュースやら食料、資源問題などの報道を読んだり見たりしているとどうもでかすぎるなんて言ってられない気分だ。この地球に生きている60億分の一人としてこの先生き死にに関わる変動が起きているんじゃないかという(不吉な)予感がする。しかももう誰も止められないという予感だ。しろうとの予感だから自前の何の根拠もない。もしかしたらおどろおどろしい報道に惑わされて怖がっているだけかも知れないとも思う。それでも5年後に(生きていれば)この一文を読んでOJISANの予感がはずれていることを願って書き付けておく。

 今日から洞爺湖サミットが始まった。一番二番の議題は、地球温暖化と食糧問題だそうだ。両者は絡み合っており食料の増産減産は地球気候に左右されることは素人でも分かるから結局地球温暖化が一番の問題だ。北極の氷が溶けたとかアメリカやオーストラリアの干ばつとか中国内陸の砂漠化とか世界各地の天変地異が生の映像で人々に届けられ、これを見るとただごとじゃないと思う。身近な生活実感でも豪雨が頻発しているし、雷も多い。やたら暑いしなんか変だと感じることが多くなった。

 なのに、世界では自国の利益を優先してお互いに譲らない。明らかに自分の国土や気候もおかしくなっていると分かっているのにである。サミットに偉い人が集まっても合意事項は玉虫色で具体性がはっきりしない。地球人類の努力よりも温暖化の方がずっと先を行っている気がする。もう戻れないぐらいだ。100年後には地球平均気温が何度か上がって海面が6メートル上昇するなんて予測があるけれどそのころ人間はどうしているのだろう。そのころ人類は絶滅していると予測した方がいいと思う。海面が6メートル上昇しようが人はいなくなっているのだからかまわないのだ。意外と人類絶滅の進行は速いのではないか。50年後にはCO2を現在の50パーセント減らそうなんて相談しているけれど人類も50パーセントは死滅しているに違いない。地球崩壊に向かって動き出した自然はそんなに甘くないと思うよ。

 ただ、権力も金もない人間たちにも(非常に後ろ向きの)救いはある。追いつめられるのは自分たちだけではない。核戦争なら生き残る権力者や金持ちもいるかもしれない。しかし、二酸化炭素は平等にじわーっと迫ってくる。だれも防御できない。避けられない。そしていったん地球に充満した熱とガスは永遠と思えるほどの年月減らない。生き残って酸素ボンベを背負った生活など何の意味があるだろう。熱い地球のどこに住むというのか。生き残れば生き残るほど苦痛の生活が待っており、おのれも含む人間の愚かさを思い知らされるわけだ。

 こんな子供じみた書き方で予測をしたが、生きていれば5年後にはOJISANは70歳になる。そのとき自らの文章を読み、地球がもっとおかしい状態であればすぐ分かる。仮に悪い方向に向かっていてもOJISANは滑り込みセーフだ。人類絶滅の前に死んでしまえるだろう。それまでこの成り行きをしっかり見守ってみよう。予測が甘いだろうか。自分勝手すぎるだろうか。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

銭湯の人生

 OJISANの主要な息抜きはスーパー銭湯に浸ること。久しぶりに浴槽でぬくぬくとしていてふと気がついた。

 向かいに座るおじさんの顔のなんと厳しく見えることか。人生の辛酸をなめつくし、それに堪え、さらに果敢に闘争しようという迫力まで感じられる。さらに、浴槽の縁に座るおじさんも半身を湯に浸すおじさんの顔も横を通るおじさんの顔もそれぞれ厳しく、哲人のごとく感じられる。実に味のある顔、顔、顔である。してみると、OJISANもそれらしい顔をして湯に浸かっているのであろうか。そうありたいがOJISANに限っては自信がない。むかし、「男の顔は履歴書である。女の顔は請求書である」と言った人がいるが、出っ腹や肌のたるみは別にして、顔だけは実にいい群像を見た気がした。

(山里の野天風呂につかる日本猿を想像してもらってもいいんだけどね)  

| | コメント (0) | トラックバック (0)

生きる執着心

 おふくろは89歳になった。身体はよれよれになっている。頭はまだ大丈夫だが、時々怪しい。排泄の不始末を中心に生活のいろいろな面でやっかいが目につき始めている。そういう有様を見ていると自分はこんなにまでなって生きていたくないと思う。しかし、ままならないのが人生だ。おふくろは何を考え、何を感じて生きているのか分からない。もくもくと日々を過ごしている。OJISANも黙々と母親の世話をして過ごしている。その意味では変化のない平穏な日々とも言える。たえず死を前に見据えた平穏だ。老人介護にハッピー・エンドはない。せめて良き死で終わらせたいというのが求める幸せである。

 OJISANは「こんなにまでなって生きていたくない」と書いたが、おふくろもこんなになるまで生きるはずではなかった。海外からの引き揚げ、戦後混乱期の夫との離別、こどもを二人を抱えての必死の生活。いつ死んでもおかしくなかったのだ。おふくろにはそういう予感が明確にあった。だから国民年金も繰り上げでもらってしまい損をした。

 おふくろはただ生きた。生きる執着心など持ちようもなかった状況だったが生きてしまった。それがOJISANも生かした。海外から引き上げの際に子供を捨てた親はたくさんいた。しかし、おふくろは自分も子供も生かした。戦後の生活は子供のことを省みる余裕もなかったが子供に必死に生きる姿を見せることで、こどものOJISANも必死に生き、グレられなかった。中途半端な生活環境で放置されていたら立派な犯罪者になっていただろうと想像することがある。母親が自分でもわからないうちに生きて、生きて、生きたから今日のOJISANがある。たいした人物になったわけではないがOJISANもしぶとく生きている。

 母親が「こんなにまでなって生きた」執着こそOJISANにいいことも悪いこともたくさん経験させるOJISANなりの豊かな人生を与えることになったのだ。排泄の不始末を怒り、おかしな言動にイライラし、この先の見えない世話にやるせない思いを持つとき、OJISANはその根源に母親の「生きる執着心」を見つめて感謝し、あらためて介護の勇気と継続の意志を奮い立たせているのだ。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

母の衰え

 libraいつも変わらずに見える母もやはり衰えてきているのだ。この5月で母は89歳になる。その母の介護を始めて4年目を迎える。はじめは通いで、今は同居してみている。OJISANから見ると母は模範的な老人である。礼儀正しいし、忍耐強いし、矜持を持ち、なるべく人を頼りにしないように努力している。足腰が弱り、難聴で、目も半分見えないにもかかわらずである。同居の当初は母の失敗に目くじらを立てて怒鳴ったりしたこともあったが、母の失敗のたびに実はOJISANも対処に失敗しているのである。
 しかし、母の失敗にあわてふためくたびにOJISANは介護のあり方を学んでいる。介護方法というよりも介護者としてのこころのもちようが成長していることを実感するのだ。したがって、いまでは二人の間に波風も立たず、穏やかに日を重ねている。それにもかかわらず母が衰えてきていると感じるのが悲しい。

 happy01OJISANは母の介護を通じて、年寄りの相手をすることの楽しさを知った。実に味わい深いのだ。実に暖かい雰囲気なのだ。こちらから呼びかけやアクションを起こせばかならずそれなりに応えてくれる。同居生活も慣れてきて、毎日母とともに大笑い、クスクス笑いがあるゆとりが生まれている。そろそろ自分自身がOJI-SANとなりつつあるOJISANも晩年にはその味が出せるようになるだろうか。よく世間ではひねくれたジジ、ババの話が出るがそういう年寄りはごく少数なのだと思う。
 若い人たちがたくさん介護施設で働いているが、あんがいこういう老人たちの命の輝きにふれる楽しみを感じているのかもしれない。母がデイ・サービスでお世話になっている施設にも若い人たちが入れ替わり働いている。「入れ替わり」という表現は辞めていく現実を暗示したつもりだが、意義ある仕事でも食えなければ辞めざるを得ない。介護の仕事に魅力を感じている若者たちに生活できないという現実をつきつけてはいけない。世代間の断絶そのものであるから。

 sun母にはがんばって生きていてほしい。母の衰えを感じて歳だから仕方がないと思う一方で、OJISANのこころには密やかな不安がある。 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

『ヒトラー・マネー』講談社

book 第二次大戦中のナチス・ドイツによる偽金づくりの話。スリルとサスペンスよりも偽金づくりを成功させるために優れたマネジメントをしたひとりのSS少佐の動きを中心としたドキュメンタリーである。

 近代以後の戦争は国家総動員戦だ。何でも有りだ。それぞれ戦争の大義は我に有りとふりかざすが、内実はなりふり構わない大陰謀、大量殺戮、大破壊の連続だ。道徳とか正義とか騎士道(武士道も?)が顔を赤くして逃げ出す始末である。
 敵国の偽金をつくってばらまいて経済を大混乱させ継戦能力を喪失させようというアイデアなど戦争当事国としてはすぐに思いつく。だが、実行となると躊躇する国もある。この本によれば、アメリカではかのノーベル文学賞作家のスタインベック氏がライヒス・マルクの偽金を作って戦争に勝とうという提案を大統領にしたが、検討した結果(たぶん犯罪行為だと判断したのだろう)却下された。そうだよね。これで戦争に勝ってもそれ以後偽金づくりは犯罪じゃなくなる。だって大統領自ら偽金を作っていたなんてことになったら、たとえ戦争だったからといういいわけも空々しいかも。

 ところがナチス・ドイツは違った。指導者連中は歴史の事実が示すとおりきわめつけの犯罪者集団だったから偽金づくりなんかぜんぜーん平気。(日本軍はなぜやらなかったのだろう。きっと想像力が足りなかったのだ。第二次大戦中日本軍は一貫して想像力が不足していた。)いかにして本物そっくりのイギリス・ポンド札をつくるかとすぐさま作業にとりかかった。最初の偽札はうまくいかなかった。マネジメントがアバウトだったからだ。次にヒムラーからマネジメントを命令されたベルンハルト・クルーガーは有能なマネージャーだった。絶滅収容所内に偽金づくり工場をつくり完全な隠蔽工作に成功した。だってこの収容所を出られるのは死人だけだったから。
 偽金づくりをする人材はユダヤ人、捕虜などからリクルートした。これからが大事なのだがクルーガーはそれらの人材を人間的に扱った。そのことで意欲と才能を引き出した。そこらへんのクルーガーとユダヤ人たちのかけひきが実に面白い。もっともユダヤ人や捕虜たちは命がけだから面白いどころではないが。

 結局のところ、ベルンハルト・クルーガーとそのグループは本物のポンド札より本物の札を作り上げてしまった。それを各地で大量にばらまいたらしいがあんまり大騒ぎにならないうちに戦争はドイツが負けて終わってしまった。イングランド銀行は偽札に気がついて大騒ぎしたようだが、世間にはあまり広まらず収束してしまったようだ。本物を作っちゃダメだよクルーガー君。
 最近キム・なんとか君が偽金を作っていたらしいともっぱらの評判だが、これからの戦争では偽金づくりは古典的戦術になりつつある。特にドルはダメだ。アメリカ人は小切手ばかり使うからだ。これからはなんといってもコンピューター・ハッキングによる撹乱戦術が主流になるだろう。ちまたでは影の戦争はすでに始まっているといううわさもある。
 自分の部屋でひとり平和にシコシコ楽しんでいるハッカー諸氏が大量動員される日がいつまでも来ないことを祈るのみである。

 

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

『サブ・プライム問題とは何か』宝島社新書

 題名のとおりいったいどんなことなのか無知なOJISANにぴったりな解説書だと思い読んでみた。OJISANはそもそも「プライム」の意味さえ分からなかった。上級とか一流の意味だそうだ。サブとはその次の意味で「一流の次のローン」というわけだ。分かったかな?この受け売り自体が間違っているかもしれない。OJISANは責任が持てないので油断しないように。

 サブ・プライム・ローンは初め善意から始まった。本来は新築の家など購入できそうもない階層の人々に家を手に入れてもらおうと政府の肝いりで補助あり、モラトリアムありという形で金がない人でも時間をかければ何とか借入金を返せそうだというローンである。その背景にはアメリカの住宅はそこに住んでいるうちに値上がりするという神話があった。日本では新築の木造住宅などローンを払い終える30年が経つころほとんど無価値扱いである。ところがアメリカでは中古の家でも購入後住みながらDIYで住み心地や見た目をよくして、売るときには買ったときより高い値段で売れるというのが(今までは)常識だった。だから万が一人生計画がうまくいかなくてローンが払えなくなっても家を売り払えば悪くても収支トントンという計算が成り立っていた。

 銀行はそういう神話とアメリカ的楽天主義でどんどん貧乏人に家を買う金を貸した。危なくなれば家を取り上げればいいのだ。取り上げた家は高値で売ればいい。そしてさらにどっかの頭はいいが倫理的には問題含みの知恵者が考えたのだと思うが、取り上げたたくさんの家を債券の束にして国内や国外にロー・リスク、ハイ・リターン商品として売り出した。それを儲けのタネとして買った金融機関が世界中にいっぱいあった。ところが、家は、つまり債券は値上がりしなかった。そして一つの破れ目が全体の信用を破綻させた。アメリカ、ヨーロッパの金融界はいまガタガタだ。これがサブ・プライム問題だ。どうだ分かったかな?無知な者ほど人の言葉を借りてエラソーなことを書く。つまりOJISANのことだ。

 OJISANは少ない脳みそをかき集めて考える。サブ・プライム問題は資本主義の悪いところがむき出しになった問題だ。今から15年くらい前には資本主義の対極として共産主義があった。お互いに相手のイデオロギーを攻撃するとともに自分の欠点を隠しイデオロギーの良さを宣伝した。それぞれそれなりの政治、経済、倫理的自制が働いたはずだ。そして結局理想と現実と自制と倫理の乖離があまりにもはっきりした共産主義は破れた。そうすると勝った資本主義も欠点がうごめき出す。資本主義の最大の欠点は貧乏人をいじめることだ。金儲けのいちばんオーソドックスな方法は貧乏人から搾り取ること。だが今回はやりすきた。自ら落とし穴に落ちてしまった。ざまーみろ。貧乏人万歳!というほどでもないか。とにかく、はい上がるのに時間がかかりそうだという予測がなされている。

 さて、日本はどうかというとバブルがはじけて金融機関がボーゼンとしているうちだったのでサブ・プライムに乗り切れなかった。それが幸いして傷はそんなに深くないようだが、似たような現象が深く静かに始まっているかも。と著者の春山昇華先生は警告している。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

今を生きる

 88歳の母に「何が楽しくて生きているの」と聞く。母は「なかなか死ねないから。今を生きるしかないのよ。」と答える。

 それを聞いてOJISANは考える。では、おまえは何かあるのか。「ない!」 それでは今だけを生きるしかない。それが一番楽なのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

OJISANはクレーマー

 OJISANは最近久しぶりに公的に怒った。理由は私憤だが表立ててクレームしたので公的になったのである。しょーもない理屈なんてどうでもいい。経過を書いてみよう。OJISANの怒りがどんなに正当(たぶん)なものか分かっていただけるであろう。

 OJISANは、ある日あるデパートに入った。一階に食品売り場のあるデパートである。(小さいデパートではない) 久しぶりに母にうまいパンを食べさせたいと思いあるしゃれたフランス貴婦人の名のついたパン店に入った。クロワッサンとあと一種類(忘れた)をトレイに乗せて、さてと数個所のレジを見ると空いているところがあったので近寄った。とたんにレジの若い女性(OJISANの天敵)から大きな声で「列にお並びください。みなさんお待ちになっているんですから」と(ほとんど)怒鳴られた。(と感じた) OJISANはえっと思い、振り返ると男性がひとりトレイを持って立っている。その男性の上に看板がぶらさがりそれらしいことが書いてある。下の床には消えかかった矢印が描いてある。こんなの見えないよ。なんだその怒鳴り声は、客であるOJISANは衆人環視の中で怒られているのではないか。OJISANは恥ずかしさと怒りで直ちにスイッチが入り、トレイをパンごと放り投げ自己の所信を表明しようと言う体勢に入りかけた。

 が、かろうじてやめた。怒鳴ったところで暴れたところで、ほとんどOJI-SAN化している男の孤独と悲哀に生き飽きた果てに若い女性を相手にカタルシスを発散している醜い姿だとしか思われないからである。OJISANは黙って並び、その女性のレジにトレイを乗せる順になった。怒りを抑圧したOJISANの顔はきっと凶悪そのものだったに違いない。しかも時間がなく焦っていると誤解され(あとでOJISANは気がついた)、何度もレジ女性は「もう少々お待ちください」を連発していた。会計を済ませ、レジを離れ帰途についたOJISANの心は大きく傷つき、家に帰っても怒りは肥大して頂点に達していた。何か言ってやらなければならない。このままにしておけば自分の怒りの対象は無辜の人々に及ぶ危険がある。OJISANの怒りは正しい対象に向けなければならないと決心して電話帳を繰った。

 電話は一階の食品売り場の責任者だという女性に回された。OJISANは、名前を名乗り経過を説明し、①並ぶよう指示する看板が高すぎて気がつかない。まして初めての客には。②床の矢印は消えかかっている。列を示すロープもない。③たしかにOJISANは間違ったが、小さい声で「お客様、恐れ入りますがお並びください。」とでも言ってもらえないのか。まるで割り込みをするズルイやつ扱いだ。④客であり、年上の者に敬意を示すよう教育せよ。しかし、もう二度と行かない。⑤なんか文句あっか。⑥名前を名乗ったが反論があるなら住所も教える。徹底的に戦闘的に討議しよう。

 売り場責任者の女性は徹底的に低姿勢で、謝罪を繰り返し、反論しなかった。当たり前だ。孤独なOJI-SANの怒りが心頭に達し店頭で刃物でも振り回されたらコトだ。(最近多いからな) それがOJISANにはクレーム慣れした常套句の連発のように感じられ虚しかった。どっかのテレビで最近キレる老人が増加し、その原因は時代と雰囲気に馴化できず、孤独や怒りを昇華すべき方法を持たない人が増えたからだなどと訳知りが顔に話すバカ解説者がいたが、そんな老人ばかりではない。怒る老人の大半は、OJISANのように正当(たぶん)な感覚を持って怒り、公害に近い「対人鈍感力」へのやるせない思いをぶつけているのである。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

墓碑銘『才能ある漫画家の父親だった』

 先日産経新聞の連載漫画「のんびりいこうよ」の赤羽みちえさんの父親についてふざけたことを書いた。ところがそのお父さんが突然亡くなった悲しみが漫画として掲載され、びっくりしてしまった。しかも、その翌日の産経新聞記事によれば、お父さんは近所の人々に非常に親しまれた方だった。OJISANは前のブログで「お父さんの人柄は良くない」云々と書いていたのだ。まったく見当はずれだった。OJISANは猛省している。赤羽みちえさんごめんなさい。

 よくよく考えれば、お父さんはOJISANと老後の処世について共通するところがある。同居しようという娘の申し出を断り独居して(漫画によれば)ゆったりとした愉快な生活を送っていた。最後は穏やかな孤独死を遂げた。OJISANのかねての信条は「孤独・沈黙・清貧・そして死」である。赤羽みちえさんのお父さんはそうしたOJISANの理想を一部体現した大先輩ではないか。学ぶべきところはたくさんあったのである。それを表面的にとらえふざけたことを書いてしまった。申し訳のないことであった。その文章はOJISANの愚かさを示し、我が身の絶えざる反省の材料としてそのまま掲示しておく。

 赤羽みちえさんの連載漫画は個性あふれるキャラクターがいなくなったことによってこれで終わってしまうのだろうか。介護を暖かく励ましてくれた漫画だった。これからも続くことを願っている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

『のんびりいこうよ』

 「のんびりいこうよ」ってなーんだ?と書かれて、読む人はまず?????だろうな。「のんびり」はのんびりだ。「いこうよ」は旅か。しごとか。暮らしか。そんなところを連想すると思う。

 実はこれは産経新聞「ゆうゆうLIFE」面にときどき掲載される連載介護マンガである。介護マンガというのはOJISANがここで勝手につけた。作者に言わせれば介護ではないかもしれない。ありふれた日常の家族のありようをユーモラスに点描しているのかもしれない。しかし、OJISANは登場人物を作者から見た家族、すなわち介護される人ないしは介護を要するかもしれない人を中心視点として描いているように思えるから介護マンガなのである。

 作者は「赤羽みちえ」さん。OJISANはこの人が大好きだ。と言ったって会ったことも実際に見たこともない。何かの拍子にテレビに出た顔をちょっと見たことがあるけれどマンガに出てくる(本人の)顔にそっくりだ。まあ、あたりまえだな。自分の自画像も描けないマンガ家(画家)は人間じゃない。なぜ大好きなのか。それはマンガから赤羽みちえさんのあったかーい心が伝わってくるからですよ。それしかない。もうずっと前から続いているのだがOJISANが読み始めた頃は病院に入院しているお母さんが中心で、母に寄せる娘の想いが痛いくらいわかる。と言ったって暗いマンガじゃない。何回も書くけれどあったかーいマンガなのだ。そしてお母さんは入院介護生活の果てに亡くなってしまう。同時進行マンガだ。母を亡くした悲しみが伝わってきてOJISANもがらにもなく悲しかった。

 現在「のんびりいこうよ」の主役は作者のお父さんである。この人は以前には画面の隅に登場するその他大勢+アルファ扱いだったが、大抜擢された。このお父さんはなかなかくせ者である。人生の裏表を知り尽くし、心配する娘を振り回してしたたかに生き抜いている。一人暮らしの83歳。酒好きのようだ。好人物とは思えない。でも憎めない。何にもできないらしく、ボーっとしているように思えるがとにかく生きている。一人暮らしだからすごく心配になる。訪ねてみるとどっこいふてぶてしくも悟りきった生活の知恵と態度を見せる。赤羽みちえさんはそういうお父さんを攻めあぐねている。

 OJISANが笑っちゃうのは、お父さんの生活姿勢というか老人としての生き方の裏返し女性版がわがおふくろだからである。もちろん生活条件は違う。おふくろはOJISANと暮らしている。年齢も88歳だ。ボケてはいない。自分で言うのも変だがおふくろは実に素直で礼儀正しくおとなしい。扱いやすい。でも、やっぱりしたたかでOJISANを振り回し、油断しているとウンコ、シッコを漏らす、転んで寝込む。この間などデイ・サービスで入浴して他人の下着一式着込んで帰ってきた。やるねー。「のんびりいこうよ」のお父さんも、わがおふくろも今後が楽しみである。

  

| | コメント (0) | トラックバック (0)

介護はOJISANを成長させるか

 OJISANの母はさきごろ要介護2となった。昔に比べて子供にかえったような挙措動作、言動のはしはしに笑い、悲しみ、怒る日々となった。ご飯を食べるときは幼稚園の子供のように大きな声で「いただきまぁーす」と言い、こぼしたものを目で探す。「ありがとうございます」とか「すみません」とか「おはようございます」など言葉遣いが他人に対するように礼儀正しい。この情景だけをとれば、まったく模範的な要介護老人である。

 母の問題点は排泄の失敗である。そして、OJISANの問題点が抉られたのもこの排泄の後始末においてである。母は3年前はオシッコのお漏らしをした。自分で始末できた。次に下痢をしてトイレに間に合わずフロアに点々と残した。そのときも不自由になってきた四肢を苦しそうに折り曲げながら自分で掃除した。現在はもうダメである。自分では便をしたあとお尻を拭くのもこころもとない。ポータブル・トイレから立ち上がり手を後ろに回すのだが要所まで手をとどけないのだ。それはお漏らし防止の尿パッドをしてパンツを穿いても、何かの拍子に尿パッドを見るとウンコがべったり付いているのでわかる。

 そのころからOJISANは母のウンコの始末を時々だがせざるを得なくなった。自分のウンコも臭いが、他人のウンコは本当に臭い。尿パッドのオシッコだって臭い。オシッコがなんでこんなに臭いのだ。おふくろのオシッコは特別な匂い物質でも入っているのかと思うくらい臭く思った。それでも、ベッドの防水シーツ、パンツの中、尿パッドの範囲で問題発生ならなんとかこなせた。しかし、最近数ヶ月は月に一度くらいその範囲を超えるのである。そしてだんだんそれがひどくなる。

 このあいだ、母はウンコをした。拭き方が悪くてしかも手に付いたのも気づかずあちこち触るものだからポータブル・トイレのあちこち、ベッドの手すり、下着の上下の部分、足にもついている。落ちた糞をあわててトイレット・ペーパーで拭こうとしたのか絨毯の汚れも拡大している。これほどひどい状況は初めてだ。逆上してしまった。母に動くなと命令しても母もあわてている。怒りと母を制御しようとして裸の尻を平手で強く叩いた。その尻にOJISANの手のひらの跡がつくほどに。(以前にも手などを叩いていたことがある)

 すべてを片づけるまでに1時間もかかった。母は落ち込んでいる。OJISANは母の尻の跡のことを考えた。明日の朝まで残るなら(虐待の跡だから)デイ・サービスには出せないなと。そう計算しながらも、猛烈な後悔の念が湧いてきた。OJISANは表面的には穏和な男という評価がある。実は若いときから凶暴な本質を秘めており普段はそれを抑圧している。(現役時代、それがなければあの闇の戦争に生き残れなかった)もう使う必要のない狂気から逃れられないのか。OJISANを生み、本来なら4歳で死ぬか、捨てられる命を救い、戦後の過酷な生活でも我々兄弟を育ててくれた母になんてことをしたのだ。(いま考えるとここはもうお涙頂戴式だが、ちょっと苦笑いしちゃう)もうぜったい暴力をふるうなどということはしないと大反省をした。

 大失敗、小失敗、大反省を繰り返していろいろなことを修得するOJISANである。そして今日、母は盛大なそそうをした。片づけるのに2時間半もかかった。だんだんひどくなる。母は落ち込んでいる。しかし、OJISANは「ウンコ、ウンコ♪♪~」と鼻歌を歌うときもあった。自分なりにかなり無理していたかもしれない。でも我慢して作業できた。不思議に盛大なはずの匂いも気にならない。

 「介護は地獄ですよ」と安藤和津さんは涙ながらにテレビで叫んでいた。でも別のテレビの出演場面では若々しく晴れやかだった。久しぶりに見る井森美幸さんは昔のように元気だ。OJISANを感動させ、介護のこころを教えてくれた荒木由美子さん、みんな介護の苦しみ、悲しみ、孤独を通り抜けてきた人たちだ。これから正念場を迎えるOJISANもいつの日かあの人たちのような過去への思いを持ち、今を生きることができるようになるのだろうか。

 

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

«『アウトレット・ブルース』ぴあKK